【解説・作品紹介】「カミーユ・ピサロ」はなぜ “印象派の父” と呼ばれるのか。

カミーユピサロ

ピサロは私にとって父親のような存在だった。相談相手で、神ような人だった。

ポール・セザンヌ

「印象派の父」というと、クロード・モネや、エドゥアール・マネを彷彿する方は多いのではないでしょうか。

芸術に詳しい人々の間では、「カミーユ・ピサロ」こそが印象派の父であると言われています。

なぜピサロが印象派の父と呼ばれるのか、彼の作品とともに紐解いていこうと思います。

個性的なアーティストたちに寄り添い、生涯学ぶことをやめなかったピサロ。穏やかであたたかな人柄が滲み出ている作品で癒されてくれたら嬉しいです。

しろみ

東京都在住。30代で新しくできたあだ名は”分析”。趣味は人間観察、苦手なことは頑張ること。ピサロ、「印象派の母」でも良さそうと思う。noteはじめました。

目次

【生涯を解説】 カミーユ・ピサロってどんな人

カミーユ・ピサロ(1830−1903)は、モネやルノワール、セザンヌといった印象派の巨匠たちと並ぶ存在。印象派の最年長であり、8回開催された印象派展すべてに参加した唯一の画家です。

カミーユ・ピサロ 自画像 ©︎Wikipedia
カミーユ・ピサロ 自画像 ©︎Wikipedia

個性派ぞろいの印象派画家たちは何度も分裂の危機を迎えましたが、その間を取り持ったのがピサロ。そして、才能あるアーティストの声をかけ、チャンスを与えたのも彼でした。

ピサロの支えがなければ、私たちが知る印象派の画家たちは、これほど有名になっていなかったかもしれません。

そんな”縁の下の力持ち”であり、アーティストの良き兄貴分だった彼の生涯を解説します。

【0歳〜24歳】幼少期〜画家を目指すまで

カミーユ・ピサロ(Camille Pissarro)は1830年、当時デンマーク領だったセント・トーマス島(カリブ海に浮かぶ島)で生まれました。印象派の画家としては珍しく、ヨーロッパ出身ではなかったのが彼の特徴です。

父はフランス・ボルドー出身のユダヤ人で、金物屋を営んでいました。母もフランス系ユダヤ人。ピサロは、4人兄弟の三男としてそんな家庭で育ちます。

1842年、12歳でパリの寄宿学校へ行きました。そこの校長が、彼が絵に興味があることに気がつき「故郷に帰ったら、ヤシの木をたくさん描きなさい」と助言をしました。

カミーユ・ピサロ「農家とやしのみがある景色」1853年 ©︎Wikipedia
カミーユ・ピサロ「農家とやしのみがある景色」1853年 ©︎Wikipedia

故郷に戻った彼は、いったんは家業の金物屋を手伝いますが、20歳のときデンマーク人の画家と知り合いカラカス(現在のベネズエラ)へ。1852年から2年間、共に旅をしながら絵を描き続けました。


セント・トーマス島の海岸で話をする2人の女 1856年 ©︎Wikipedia

この経験を通して、「やっぱり画家になりたい」と決意したピサロ。25歳のとき、本格的に画家を志すべくパリへ行くことを決意します。

【25歳〜41歳】画家の修行時代

25歳でパリにやってきたピサロは、誰でも入れる美術学校「アカデミー・シュイス」に入塾し、モネとセザンヌと出会います。

彼に大きな影響を与えたのが、コローという風景画家でした。ピサロはコローから、パリの喧騒を離れて自然の中で絵を描くことを勧められ、郊外での制作を始めます。そして28歳のとき、「モランシーの風景」でパリの官展(サロン)に初入選しました。

カミーユ・ピサロ 『モンモランシーの風景』1859年頃 ©︎Wikipedia
カミーユ・ピサロ 『モンモランシーの風景』1859年頃 ©︎Wikipedia

その翌年、1860年にピサロ家で使用人として働いていたジュリーと特別な関係になります。両親からは、宗教や身分の違いから大批判を受けましたが、ピサロは彼女と生涯連れ添い、8人の子供にも恵まれることになります。(2人が正式に結婚したのは1871年。4人目の子供が生まれた頃でした。)

ピサロと妻ジュリー 1877年©︎Wikipedia
ピサロと妻ジュリー 1877年©︎Wikipedia

ピサロは1862年から1870年までサロンに複数回挑戦。数回入選はしたものの、彼が批評家を惹きつけたり、有名になることはありませんでした。

カミーユ・ピサロ『シュヌヴィエール、マルヌ川のほとり』1864-65年頃 ©︎Wikipedia
カミーユ・ピサロ『シュヌヴィエール、マルヌ川のほとり』1864-65年頃 ©︎Wikipedia
カミーユ・ピサロ『ジャレの丘』1867年©︎Wikipedia
カミーユ・ピサロ『ジャレの丘』1867年©︎Wikipedia

(ピサロの絵は)どれもよく書けている。飛び抜けているものはない。ごく普通の才能だ。しかしそれも才能である。

サロンの批評コメント

39歳の頃から、ピサロの作風に大きな変化が現れます。色調が明るくなり、絵の具の塗り方が薄く軽やかに。この頃からモネ、シスレー、ルノワールと共に戸外で制作していました。その経験が彼の画風を変えていったのかもしれません。

カミーユ・ピサロ『ルーヴシエンヌのヴェルサイユに向かう道』1869年 ©︎Wikipedia
カミーユ・ピサロ『ルーヴシエンヌのヴェルサイユに向かう道』 1869年 ©︎Wikipedia
カミーユ・ピサロ 1871年 ©︎Wikipedia
カミーユ・ピサロ 1871年 ©︎Wikipedia

その後、1870年に勃発した普仏戦争(プロイセン=フランス戦争)の影響で、ピサロはロンドンへと避難。同じく避難していたモネと美術館に通い、イギリスの画家ターナーの作品に強い感銘を受けます。

そして、ロンドンで印象派を支える重要人物と運命の出会いを果たします。それが、画商ポール・デュラン=リュエル

ポール・デュラン=リュエル 1910年

彼は印象派を支援した最初の画商で、ピサロや仲間たちの存在を世界に広めていくことになるのです。

【42歳〜55歳】印象派の兄貴時代

1872年、42歳のピサロにようやく光が差したかと思われました。

画商デュラン=リュエルが、彼の作品を高値で買い取ってくれたのです。さらに、オークションに出品された複数の作品がすべて落札され、画家としての評判は一気に高まりました。モネはすぐに祝福の言葉を送ったといいます。

カミーユ・ピサロ 1872年 ©︎Wikipedia
カミーユ・ピサロ 1872年 ©︎Wikipedia

この頃、ピサロはパリ郊外のポントワーズという町に移り住みます。彼はそこで、田園風景とそこで働く農民たちの姿を、誇張することなく描きました。飾らず、ただそこに暮らす人々をまっすぐに捉えた彼の絵にはあたたかさがあります。

『ポントワーズの眺め』1873年©︎Wikipedia
『ポントワーズの眺め』1873年©︎Wikipedia

1873年には、仲間たちとともに印象派展の開催に向けて準備を始めました。実は1867年にも一度構想していたものの、資金不足で断念していたのです。

開催に反対する声もありましたが、最終的に約30人の芸術家が集まり、1874年に第一回印象派展が実現します。モネ、ルノワール、シスレー、モリゾ、セザンヌ、ギヨマンなど、のちに歴史に名を刻む画家たちがこの展覧会に参加しました。

第1回目印象派展の開催場所(左)とカタログ(右) ©︎Wikipedia

やっと収入が安定してきたかと思ったら、1876年にデュラン=リュエルが資金難に。ピサロの収入は激減し、同年には自宅の全財産が差し押さえられそうになるなど、経済的に追い詰められます。

彼は生活を支えるために、完成の早い陶製タイルに絵を描いて販売するなどして乗り越えようとしました。

1879年の第4回印象派展では、初めて大きな対立が生まれます。

「印象派展では作品が売れないからサロンに戻る」と主張するモネやルノワールに対し、「サロンに出すなら印象派展には出すな」とドガが強く反発したのです。この衝突により、ルノワール、シスレー、モリゾらは印象派展から離脱。モネは「仲間を見捨てたくない」と渋々作品を提供しました。

ドガを排除しようとする動きがあった際も、ピサロは冷静に仲裁に入り、グループの分裂を防ぎます。

数年後、デュラン=リュエルが再びピサロの作品を買い取るようになりますが、彼が融資を受けていた銀行が破綻し、経済的な危機に直面。ピサロと仲間たちは、リュエルを支援するために1882年の第7回印象派展を開催します。

ピサロ「朝食、カフェ・オ・レを飲む若い農婦」第7回印象派展展示作品 ©︎Wikipedia

第7回印象派展は、ピサロは対立していたドガを不参加にしたため一度離れていったモネやルノワールが戻ってきました。

(左)モネ『ひまわり』(右)ルノワール『舟遊びをする人々の昼食』©︎Wikipedia
第7回印象派展に展示された作品(左)モネ『ひまわり』(右)ルノワール『舟遊びをする人々の昼食』©︎Wikipedia

その翌年、ピサロ53歳で初個展を開催します。それは見事に成功。

でも、当時印象派は「近代美術」でした。近代美術である印象派を賞賛する声は少しずつ上がってきたものの、非難の声の方が多いことは確か。ピサロは印象派風の画法から少しずつ離れていきました。

【56歳〜晩年】印象派の父時代

1885年、55歳のピサロは、30歳近く年下の若き画家ジョルジュ・スーラとポール・シニャックに出会います。

彼らは「点描画」という、線ではなく点で絵を描く新しい手法に取り組んでいました。

(左)スーラ「グランド・ジャット島の日曜日の午後」(右)シニャック『朝食』(1886-87年)

革新的なスタイルに感銘を受けたピサロは、彼らを印象派展に迎えようと考えます。ところが、モネやルノワールは「点描なんて印象派じゃない」と猛反対。

今までは仲裁役のピサロが、このときばかりは点描画を支持し、自身もこの技法に挑戦しました。

カミーユ・ピサロ『部屋の窓からの眺め、エラニー』1888年 ©︎Wikipedia
カミーユ・ピサロ『部屋の窓からの眺め、エラニー』1888年 ©︎Wikipedia
ピサロ『リンゴの収穫、エラニー』1888年©︎Wikipedia

仲裁役のいなくなった印象派グループは決裂し、ピサロの点描画は長年支えてくれていた画商デュラン=リュエルに買ってもらえなくなりました。


それでもピサロはあきらめず、ゴッホの弟、テオのもとを訪ね、点描画の素晴らしさを伝えました。テオはその価値を認め、ピサロの個展を開催してくれました。

ちなみに、のちにゴッホの心を支える存在となった“ガシェ医師”を紹介したのもピサロ。絵に理解のある精神科医であり、印象派を支援していた彼ならゴッホの力になれると、テオに伝えたのです。

ゴッホによる医師ガジェの肖像の画像 ©︎Wikipedia

ですが、1891年、スーラとテオの死をきっかけに、ピサロは点描画から離れ、再び印象派的な画風に戻ります。そして、デュラン=リュエルのギャラリーで作品を扱ってもらうようになったのです。

1893年頃から目の病気が悪化し、医師の勧めで戸外制作を断念。そしてホテルの窓から見えるモンマルトルやパリの大通りの連作を静かに描き続けました。

『冬の朝、モンマルトル大通り』1897年©︎Wikipedia
『冬の朝、モンマルトル大通り』1897年©︎Wikipedia
『朝、曇りの天気のモンマルトル大通り』1897年 ©︎Wikipedia
『朝、曇りの天気のモンマルトル大通り』1897年 ©︎Wikipedia
『夜のモンマルトル大通り』1897年 ©︎Wikipedia
『夜のモンマルトル大通り』1897年 ©︎Wikipedia

1897年の2月から4月までに、同じ構図で全14枚もモンマルトル大通りを描いていたのそうです。

自画像 1903年 ©︎Wikipedia

私はできるだけ静かに、熱心に制作活動をしながら、自分の運命に従うつもりだ。なぜなら、私をこの世に繋ぎ止める糸は、完全にほどける寸前だからである。

カミーユ・ピサロ

ピサロは、1903年11月に前立腺の感染病でこの世を去りました。

ピサロ晩年最後のシリーズ「ル・アーブル」1903年 ©︎Wikipedia

【おまけ】ユダヤ人であることの葛藤

1894年のパリで、ユダヤ系軍人であるドレフュスが、スパイ容疑で逮捕された事件がありました。

彼が有罪か無罪かで社会を二分していました。そして、印象派内部でも意見が対立していました。ピサロはユダヤ人なので、それが理由で有罪派であるルノワールとドガが彼の元から離れて行きました。

これほど知的な彼らが、どうしてこれほど愚かになれるのか

 ポール・シニャック

それでもピサロは誰のことも恨まず、画家としての2人を評価し続けました。

ただ、晩年まで売れることのなかった原因の一つに、自分がユダヤ人であることもあると考え、苦しむことがあったようです。

(自分が成功できないのは)人種の問題だ。今までフランスで絵を描いている人(ユダヤ人)はいない。あるいは、むしろ利害関係を離れ、心に感じられた絵を描いたユダヤ人はいなかった。

カミーユ・ピサロ

ピサロがこう考えるのも無理はないご時世でした。

そんな葛藤がありながらも、ピサロは絵を描くことを諦めず、どんどん売れていく仲間たちに対するリスペクトは決して忘れませんでした。

印象派メンバーとピサロの関係

不器用すぎるポール・セザンヌを救った

ピサロはセザンヌの才能をいち早く見抜いており、印象派メンバーに馴染めないセザンヌをずっと気にかけていました。

われわれのセザンヌは、希望を与えてくれる。

カミーユ・ピサロ

ふたりはパリ郊外のポントワーズで、まるで親友のように並んで絵を描いていた時期もあります。

ピサロ「ポール・セザンヌ」1874年©︎Wikipedia
ピサロ「ポール・セザンヌ」1874年©︎Wikipedia

師弟という関係ではありませんでしたが、絵の雰囲気が似ていたことについて、セザンヌは「当然さ、いつも一緒に描いていたんだから」と語っています。

1877年、ポントワーズのピサロ(右端=47歳)の家の庭で、ベンチに腰掛けるセザンヌ(38歳)
1877年、ポントワーズのピサロ(右端=47歳)の家の庭で、ベンチに腰掛けるセザンヌ(38歳)©︎Wikipedia

また、セザンヌを第一回印象派展に誘ったのもピサロでした。セザンヌの絵を笑う仲間たちや、画商に彼の作品の魅力を熱心に伝えていたのです。

扱いづらいエドガー・ドガを包み込んだ

ピサロとドガは、まるで正反対の性格の持ち主でしたが、とても仲が良かったそうです。

彼は手に負えない男だが、率直で誠実だ。だから、われわれは長年、よい友人であり続けている。

オクターヴ・ミルボーへ ピサロより 1891年10月10日

ドガはいち早くピサロの作品を購入していたし、ピサロはドガを「正真正銘の画家だ」と言っていました。

ドガが新しい挑戦を提案して仲間たちが戸惑うなかでも、ピサロは文句を言わずに彼に付き添い、共に制作を続けていました。

第4回目印象派展ではドガは「扇に絵を書こう!」と仲間に提案。自分では複数枚の作品を描きました。ですが、その提案にのったのは、彼の弟子1人とピサロだけでした。

エドガー・ドガ 1879年 ©︎メトロポリタン美術館
エドガー・ドガ 1879年 ©︎メトロポリタン美術館
ピサロ 1878–79年©︎メトロポリタン美術館

第6回印象派展の時も、ドガ派を排除しようとする一部の声に対し、ピサロは仲裁に入り印象派グループを分裂させずに守りました。

そして、1880年の第5回印象派展では、ドガの勧めでピサロが「エッチング(銅版画)」という新しい技法に挑戦。

ピサロ『木陰の風景、エルミタージュ』1879年(エッチング)©︎Wikipedia
ピサロ『木陰の風景、エルミタージュ』1879年(エッチング)©︎Wikipedia


これはドガのアトリエで学んだもので、彼とともに創意工夫しながら作品を作り上げました。このようにふたりは共同制作をすることで表現の幅を広げていっていました。

ですが、ドレフュス事件が勃発し、筋金入りの反ユダヤ主義のドガはピサロが「ユダヤ人」という理由から会っても挨拶をすることなく、そのまま絶縁してしまったそうです。

《おまけ》ルノワールとモネとの関係は?

ピサロとルノワールは同じ印象派の仲間ではありましたが、目指す方向性は異なるものでした。

ルノワールは明るくて美しいものが好き。サロンの評価や美術界の潮流に敏感な人でした。それほど親しいわけではなかったですが、最終的にドレフュス事件をきっかけに絶縁状態となります。

ピサロ×モネ

モネとピサロは、アカデミーシュイスで知り合って戸外政策を共にしたり、一緒に活動する時間がとても長い2人でした。

モネは1人目の奥さんを亡くした後に、「自分の気持ちをわかってくれるのはピサロだけだ」と、手紙を出しているほど仲良しでした。

ピサロからすると、モネは親しい友達であり、才能のある画家として尊敬していました。ただ自分より早く成功を手にしていたこと対して羨望の気持ちを同時に持っていました。

そして、ピサロはモネの連作の大ファンでした。

『印象・日の出』1872年 クロード・モネ ©︎Wikipedia

点描画のことで印象派が分裂した後でも、眼帯をつけた状態でモネの個展へ行き「素晴らしい絵を片目で見る羽目になったよ。(省略)まったく、偉大な画家だよ!」と息子への手紙で綴っています。

【まとめ】ピサロは印象派のお母さん?

幸せな人とは、質素な場所でも他人には見えない美しさを見ることのできる人である

カミーユ・ピサロ

ピサロは、懐が深く温厚で、周りに愛情深く接していました。

自分の技術を声高に主張することはなく、仲間たちの感性を静かに受け止め見守っていました。その姿勢には母性のようなやさしさを感じます。

それに、ピサロの描く風景画の中にはほとんど「人」がいるのです。彼は、人が好きだったからこんなにあたたかい絵が描けるのではないかと思うのです。

人が好きだからこそ、個性バチバチな印象派メンバーのことも、まるごと愛せたんじゃないかなって。

長年貧乏で生活が苦しかった彼は、家族のことをとても大切にしていました。子どもたちにとっても、ピサロは寄り添い見守ってくれる良き父親だったのかもしれません。ただし、妻のジュリーにとってはもうちょっと稼いでよ!と思われてたかもしれませんね。

ピサロと家族 1901年 ©︎Wikipedia
ピサロと家族 1901年 ©︎Wikipedia

穏やかで寛大なピサロの支えがなければ、私たちが知る印象派の画家たちはこれほど有名になっていなかったかもしれませんね。

となると、印象派の父というよりも、母の方がしっくりくるなぁ。と思ってしまうのでした。

参考文献
「ピサロ 永遠の印象派」- クレール・デュラン=リュエル・スノレール
「画家たちのパートナー」- 千足伸行
「めちゃくちゃわかるよ!印象派」- 山田五郎

YuRuLi
サイトの管理人
TOKYO | WEB DIRECTOR
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本業以外に、日常に溶け込むプレイリスト動画の作成や音楽キュレーションの仕事も。音楽、ガジェット、家具、小説、アートなど、好きなものを気ままに綴っていきます。自分の目や耳で体験した心揺れるものを紹介。
カミーユピサロ

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