「クロード・モネ」の生涯を作品と振り返る〜 印象派の巨匠が守り続けた信念とは〜

人は私の作品について議論し、まるで理解する必要があるかのように理解したふりをする。私の作品はただ愛するだけでよいのに。

クロード・モネ

クロード・モネ」の作品が大衆を惹きつける理由は、自信家であり情緒的な彼自身にあるのではないか。

上野の森美術館で行われた「モネ~連作の情景~」で私が抱いた感想です。

日本では、「美術館を再興したいならば、”印象派”か”モネ”を展示すべきだ」と言われるほど人気のあるクロード・モネの作品。私は彼の生涯を知ることでさらに深く、楽しく鑑賞できるのではないかと感じました。

もし共感してくれたなら、あなたがモネの世界へ没入するお手伝いができたら嬉しいなと思います。

目次

クロード・モネ とはどんな人?

クロード・モネ(1840 – 1926)は、印象派を代表するフランス出身の画家です。

作品数は、20,000点以上と言われ、86歳で亡くなる直前まで作品を描き続けたと言われています。そして彼は、印象派というジャンルを確立し、西洋美術史の新時代を開拓した人物の1人です。

美しい風景画が有名なモネですが、少年時代は教師や町の人々の姿を面白おかしく描いており、その作品は大変人気で地元の額縁屋で展示・販売されていました。

クロード・モネ 初期の絵
©The Art Institute of Chicago

彼の作品に惚れた画家からの熱心なアプローチを受け、外での制作活動に誘われます。そして風景画に巡り合い、18歳~19歳で”芸術の都パリ”に出て、印象派の仲間たちと出会うのです。

今や絶大な人気を誇る彼ですが、19世紀後半のパリではなかなか評価を得られませんでした。逆境の中、苦しみながらも描き続けた彼の作品は、アメリカ・ニューヨークの展示会で評価され、ブレークします。そのことが、世界に名が広まるキッカケとなったのです。

クロード・モネ作品の特徴・魅力

クロード・モネ『日傘の女』
《Woman with a Parasol – Madame Monet and Her Son》 ©クロード・モネ, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で

「クロード・モネ」の作品は、日常の一瞬が、まるで宝物のように美しく表現されていると思いませんか?

私が表現しようとしているのは、私とモチーフの間で展開されるものなのです

クロード・モネ

些細な日常に美しさを見出し、一瞬の光や水面のきらめき、儚さを大切に表現する。私は、その風情のある美しさが人々の記憶に残り続ける理由のひとつではないかと感じています。

モネは、時代に評価される絵ではなく、自分が心惹かれたものを最大限に表現し続けたのです。

「印象派」とは

クロード・モネが創設者の一人である「印象派」とは、目に見えたものをそのままに、独自の方法で光や色彩を自由に表現することを重視した画家のグループのことを指します。

印象派の画家たちがモチーフとしたのは、現実世界の生活や風景でした。ただ、それはヨーロッパの伝統からは逸脱していたのです。

サンドロ・ボッティチェリ『ヴィーナスの誕生』
《 La Nascita di Venere》1485年頃©サンドロ・ボッティチェリ

当時のヨーロッパで評価される絵画のモチーフは、歴史や神話、聖書などの場面。表現方法で美しいとされたものは、調和のとれた色合いで筆跡を残さず細部まで描かれたものでした。

クロード・モネ『プールヴィルの断崖の上の散歩』1882年
《Cliff Walk at Pourville》1882 ©The Art Institute of Chicago

モネを筆頭とする印象派の作品のモチーフは日常的な風景で、筆跡も表現の一部としているので、重なり合う色同士を調和させていません。そのため、印象派の作品は、母国では評価されずアメリカで評価されました。後に印象派は世界的な人気を誇り、ヨーロッパでも認められ、印象派画家たちによって西洋美術の歴史は変化しました。

ちなみに、印象派画家たちに影響を与えたと言われるのが、日本の浮世絵です。19世紀後半のヨーロッパでは、”ジャポニズム”が流行していました。浮世絵の自由な構図や、細部を大胆に省略した絵のタッチは、今までの写実的な美しさを求める西洋美術とはかけ離れていました。浮世絵は、海を越えた芸術家に絵画の”常識”を覆したのです。

葛飾北斎『富獄三十六景』
《富嶽三十六景》葛飾 北斎 ©The Art Institute of Chicago

印象派の作品が、日本で絶大な人気を誇る理由は、我々の身近な文化に良いインスピレーション受けた作風だから、という部分もあるのかもしれませんね。

代表作ー「連作」とは 

モネの代表作の一つである「連作」とは、同じモチーフを何度も描くことです。

彼は、同じモチーフであっても、気候・時間帯により、光加減や色彩が変化をする様子に心を奪われたようです。1日にたくさんのキャンバスを持って出かけ、同じ場所で何枚も作品を描いていました。

初の連作作品「積みわら」が展示されると、大きな反響を呼びました。抽象画家の巨匠であるカディンスキーは、モネの連作を初めてみた後に、以下の言葉を残しています。

私は初めて絵というものを見たわけだ。それは私のありとあらゆる夢も超えてゆく、以前は私に隠されていた予想だにせぬパレットの力であった

「カディンスキーの回想」美術出版社、西田秀穂訳
クロード・モネ『積みわら、夏の終わり』
《積みわら、夏の終わり》1890/91 ©The Art Institute of Chicago
クロード・モネ『積みわら、日暮れ・秋』
《積みわら、日暮れ・秋》1890/91 ©The Art Institute of Chicago

全く同じ構図で描く「連作」はモネの鋭い感覚と豊かな表現力を示した作品となり、新しい感性を世の中に広める一手となりました。

絵の特徴ー「混色」とは

クロード・モネは、「混色」という技法で絵を描いていました。「混色」とは近くで見るとそれぞれの色が、遠くから見ると中間色として認識されるという目の錯覚を利用した技法です。

彼は、油絵具の混ぜることによって色が濁るのを嫌っていたようです。混色で表現することで、光や水面の絶妙な色合いを表現することを大切にしていました。

クロード・モネ『グルファー港の岩海岸、ベリール島』
《Rocks at Port-Goulphar, Belle-Île》1886©The Art Institute of Chicago

私がやったことといえば、直接自然を前にして、きわめて逃げ去りやすい効果に対する私の印象を正確に表現しようと努めながら描き続けたということだけだ

クロード・モネ

私は、初めて彼の作品を見た際、遠くから見た美しさ近くから見た違和感に驚きました。目の錯覚を利用したモネの技法は極端に思いましたが、彼の表現に対する努力と拘りが人々の興味を惹きつけるのだと思います。

余談ですが、彼の後期の絵には「黒」が使われていません。自然界に黒が存在しないことをモネは知り、混色によって黒に見える色を表現することを大事にしたのです。初期のモネの作品には「黒」は使われています。その黒が艶やかで美しいので、見かけたら是非じっくり見ていただきたいです。

作品と見るクロード・モネの生涯

モネの生涯を作品と共に紹介します。

彼は仲間や家族、そして二人の女性に支えられていましたが、金銭面で大変苦労をしていたようです。作品を見る際に、彼の生き様も一緒に見ていただくのも興味深いかもしれないです。

初めての挫折。〜貧困時代の幕開け〜

1840年、オスカー=クロード・モネはパリで生まれ、セーヌ川河口で育ちました。比較的裕福な幼少期だったようです。幼い頃から絵を描き始め、18歳頃に芸術の都パリへ行きます。

1865年、当時25歳で当時のサロン(※)に初入選し、輝かしい功績を得ます。翌年も、恋人であり後の妻である”カミーユ”をモデルとした作品を描き入選となります。しかし、彼の父はカミーユとの結婚に反対し、モネに対する経済的援助を断ち切ります。1867年頃にカミーユの妊娠が発覚し、結婚するのですが、絵が売れず、貧困時代に突入するのです。

(サロン:1648年に設立されたフランス王立絵画彫刻アカデミー主催による展覧会。)

クロード・モネ『セーヌ河岸、ベンヌクール』
《On the Bank of the Seine, Bennecourt》1868©The Art Institute of Chicago

この作品は、モネが命を投げ捨てるかを考えるまで苦しんでいたときの作品と言われています。モネは作品に自分の感情を投影しない画家だったと言われています。この作品は苦しみなんて感じられないほど、穏やかで美しいですね。

当時、彼の作品は、大衆紙からの酷評の影響もあり、世間からも評価されていませんでした。裕福な家庭で育ち、おしゃれ好きで美食家だったモネは、収入のない状態に非常に苦しみました。同時に作品が認められない現実、家族に対する責任感等から物理的・精神的に辛い状態だったと言われています。

アメリカでブレーク。〜印象派が世間を揺るがす〜

クロード・モネ『アルジャントゥイユの画家の家』
《The Artist’s House at Argenteuil》1873©The Art Institute of Chicago

モネを含む印象派の仲間は、独自の展示会を構想するようになります。当時フランスは普仏戦争(1870-1871)が起こっており、戦後の復興過程でアート界にお金が流れ込むこととなり、モネの作品が高値で売れたのです。

1874年に、仲間たちと構想していた展示会の第1回を開催しました。開催後、モネの絵は酷評されたと同時に、印象派作品が今までの絵画の常識を逸脱した作品であったため、歴史のある西洋美術に対する宣戦布告であるとして、大スキャンダルとなります。

世間では大賑わいでしたが、モネ自身は家族とパリから離れ、アルジャントゥイユというセーヌ川河口の街で豊かで穏やかな生活をしていたようです。そこで風景や家族との景色を描き続けていました。上記作品は、アルジャントゥイユのアトリエでモネが描いた作品です。

再び貧困へ。〜最愛の妻を失くす〜

クロード・モネ『サン=ラザール駅、ノルマンディーからの列』
《Arrival of the Normandy Train, Gare Saint-Lazare》1877©The Art Institute of Chicago

1876年に、印象派作品の2回目の展示会を開催します。当時のモネのパトロン宅に招かれた際に、パトロンの妻である”アリス”に出会い、その後しばらくの間パトロン宅で滞在します。そのころ、アリスは身ごもり、周囲からはモネの子であると噂をされました。

1878年、世間の不況の影響でモネは再び貧困状態となります。モネ一家のアルジャントゥイユでの幸せなひと時はわずか数年で終わりを告げ、さらに最愛の妻カミーユが病に倒れます。そこで、貧しかったモネに救いの手を差し伸べたのがパトロンです。2つの家族は、新たな土地での同居が始まったのですが、1879年に彼の作品のモデルであり、最愛のカミーユは32歳の若さで息を引き取ってしまったのです。

クロード・モネ『ボルディゲーラ』
《Bordighera》1884©The Art Institute of Chicago

カミーユの死後、モネは旅に没頭します。様々な土地を訪れたくさんの海の風景を描きました。旅に没頭した理由は、パトロンと婚姻関係があるアリスと子供たちと一緒に暮らしていたが、その生活には苦悩がつきものだったためではないかと言われています。ちなみに、アリスは後にモネの妻になりました。

簡単にまとめると、不倫相手の夫がパトロンで、不倫相手が妻と子供の世話をしているという何とも奇々怪界なドロドロだったということです。モネという天才を愛し支えた二人の女性がおり、モネの才能に惚れ込んだ一人の男性がいたのですね。わかりそうでわかりたくない、不思議な感覚です。

再ブレーク。〜「連作」に出会う〜

世界の景気の安定とともにモネの生活は安定し、1886年ニューヨークでの「パリ印象派の油絵・パステル画展」が開催されました。そこでモネの絵は好評を博し、翌年にニューヨークで個展を開催し大ヒットしました。それをきっかけに世界的に人気を得るようになったのです。

このあたりでモネの拠点となっていたのが、現在も「モネの庭」として有名なパリの”ジヴェルニー”です。その後モネはジヴェルニーが気に入り、51歳で初めて家を購入します。

クロード・モネ『ウォータールー橋 曇天』
《Waterloo Bridge, Gray Weather》1900 ©The Art Institute of Chicago
クロード・モネ『ウォータールー橋 太陽の光の効果』
《Waterloo Bridge, Sunlight Effect》1903©The Art Institute of Chicago

51歳位でモネは”連作”を発表します。ジヴェルニー転居後「積みわら」を描き始めました。作品数は、合計25点となったと言われています。絵画の新しい価値観の誕生は世間に受け入れられ、彼の連作が続いていくのです。こちらの作品はロンドンのウォータールー橋です。1枚目は曇りの日、二枚目は朝方の景色ですね。

晩年の代表作「睡蓮」〜視覚の衰えによる変化〜

最後の連作が「睡蓮」です。睡蓮を描いた作品は300点以上にも及びます。

クロード・モネ『睡蓮』
《Water LiliesDate》1906 ©The Art Institute of Chicago

睡蓮のモデルは、モネが購入したジヴェルニーの家の庭です。すべての庭を整備する庭師は全6名で、そのうちの一人が睡蓮のある「水の庭」を整備するためだけに雇われていたとのことです。

この仕事に没頭しきっています。水面とそこに映る影に取り憑かれてしまいました。これは私のような老いぼれの能力を超えた仕事です。でも私は私が感じていることを表現したいのです

クロード・モネ

モネは、加齢による視覚障害に悩まされながらも絵を描き続けました。1890年後半から描いた「睡蓮」は300点を超えています。徐々に衰える視力の影響で、モチーフの輪郭が掴みにくくなったようで、それに伴い筆のタッチが大胆になっているのがわかります。ですが、より一層光と色が美しく表現されることに繋がり、さらに味わい深い作品となっているのです。そして、晩年のモネの作風も、以降のアーティストたちに影響を及ぼしたのです。

上野の「モネ~連作の情景~」レビュー

最終日の午前中に事前予約をして行ったのですが、当日券販売所は長蛇の列でした。3時間ほど滞在し、出てきたところ当日券は完売していました。

上野の森美術館 「モネー連作の情景ー」

作品はざっくり年代別に飾られており、モネの生涯について記されている年表もありました。作品と年表を照らし合わせて眺めるとまた違った見方ができ、一度で二度楽しめました。

作品はほぼ撮影禁止でしたが、後半に一部写真撮影可能な作品もありました。

クロード・モネ 『積みわら』

美術館を出て、お土産コーナーがありましたがこちらも長蛇の列。店内も人が溢れかえっており、特にポストカードは大人気でした。

作品がモチーフになっているお菓子や、ポストカードを飾るための額縁、お財布などの雑貨などたくさんありました。もちろん全てが可愛かったです。

ただ、人混みが苦手な私は、圧倒されてしまいブックカバーだけ買って出てきました。私と同じタイプの方は、ある程度欲しい物に目星をつけておいて、それを目掛けて行くことをお勧めします。

ちなみに、見たい作品がある場合、展示予定の作品の情報を調べておくことがおすすめです。「日傘の女」など代表作の一部は貸出不可のため、その美術館に行かなければ本物を見ることはできません。 

【まとめ】きっと、モネに恋をした。

モネの作品を実際に目をすると、様々な気持ちを抱くと思います。

私は、繊細な美しさの中に大胆さのある作品達に感動し、クロード・モネという人物に惹かれました。

彼の絵からは苦悩も喜びも全て伝わってきました。「この時苦しそう?」と思い、年表を見に行くと、何かしらの苦境に立たされています。ほぼ苦境なのですが、作品は絶対的に”美しい”。彼とモチーフの間で展開されている「何か」は彼がどんなに苦しい状態でも繊細で儚く、美しいのです。頭から離れなくて、暫くモネのことを調べていました。彼の世界観に恋をしたのだと思います。(彼の才能に惚れ込んだパトロンの気持ちがわかります。)

私にとってモネは”憧れの人“となりました。

色彩は私の一日中の妄想、喜び、苦悩です。

クロード・モネ

彼の作品が今まで色褪せず、人々を魅了し続けている理由は、彼の絵から伝わる彼の信念に憧れを抱く人が少なくないからかもしれません。

あなたにとって、モネは一体どんな存在になるのでしょうか。楽しみです。

ライター:Mizuho

東京でひっそり暮らすアラサーOLです。趣味は人間観察と面白いこと探し。苦手なことは頑張りすぎること。30代で新しくできたあだ名は「分析」。自分で書くなら水彩画が一番好き。

YuRuLi
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