【狂気の画家はウソ】誰も知らないゴッホの生涯をエピソードと共にゆっくり紐どく

ゴッホ生涯のアイキャッチ画像

美しい景色を探すな。景色の中に美しいものを見つけるんだ。
フィンセント・ファン・ゴッホ

「フィンセント・ファン・ゴッホ」。彼はしばしば、「狂気の画家」「炎の人」など、激情的なイメージのあだ名で呼ばれています。

それはゴッホの荒々しい筆使いや37歳という短い人生を炎のごとき勢いで生きたこと、自分の耳を切り落とすなど常識外れのエピソードが背景にあります。

ですが、ゴッホの残された手紙の数々を読み解くと、理知的で研究熱心な面が多く見られ、決して勢いのおもむくままに絵筆をふるったわけではないことがわかります。(性格は尖りまくり)

この記事では、ゴッホの生涯〜彼の絵がどのように世界に広まったのか、知られざるエピソードと共に深く掘り下げます。きっとゴッホの絵を見ることがもっと楽しくなるはず。

目次

【3分で解説!】ゴッホの性格と有名なエピソード

ゴッホってどんな人? 簡単に概要紹介

『ゴッホ自画像(1887年春)』@シカゴ美術館

1853年3月30日にオランダの南部ブラバント地方に生まれたフィンセント・ファン・ゴッホ。

独創的な絵から天才的なイメージがありますが、実は絵を本格的に描くようになったのは、27歳からで、それまでは牧師見習いや画廊で働いていました。亡くなる37歳までの10年で2,000点以上の作品を描いています。

今では世界で最も有名な画家の1人ですが、生前で売れたことが確認されている絵は1枚のみ。裕福な家ではなく、弟のテオドロス(テオ)が生涯をかけて金銭的支援をしていました。

ただテオ以外の家族や友人からも拒絶されることが多く、苦悩の人生を歩みます。ゴッホは側頭葉転換、総合失調症などを併発。精神病院での入退院を繰り返しながらも絵を描き続けますが、弟に子供が生まれたことをキッカケに、自分が生きていることで弟に負担をかけてしまうことを強く意識し、リボルバーで自分の腹を撃ち、自殺します。(他殺説もあり)

しかし、死後に彼の絵の評価は上がっていき、今ではゴーギャン・セザンヌと並び、「ポスト印象派の御三家」として名高いです。

『医師ガジェの肖像』@Wikipedia

最高落札額の絵は、『医師ガジェの肖像』で、当時125億円で日本人により落札されています。

ゴッホは怒りっぽい? どんな性格?

ゴッホの性格は、カンシャク持ちで怒りっぽく、誰に対してもケンカ腰とかなり尖った性格。一方で、「知性」と「愛情」を持った画家でした。

ゴッホの手紙は、オランダ語だけでなく英語・ドイツ語・フランス語での流暢なやりとりがあり、語学力が非常に高いことがうかがえます。また父が牧師であり、キリスト教に傾倒していた彼は「愛」を重視しており、牧師見習いの際は、貧しい農民と同じ水準で暮らし、少ない衣服も分け与えるなど献身的な人間でした。テオに息子が生まれた際は、非常に喜び、有名な「花咲くアーモンドの木の枝」を描き贈っています。

花咲くアーモンドの木
『花咲くアーモンドの木の枝』@ゴッホ美術館

ただ、相手思考に欠け、自分思考が相当強かったようです。作品についてマイナスな意見があれば、自分ごと否定されたと思ってしまったり、逆に好きになった女性には、相手がどう思うかを関係なしに突っ走ってしまう性格でした(勝手に婚約者との婚約を破棄させようとしたりした)。

真面目で優しい一面を持ちつつも、相手思考が薄く思い込みが強いため、カッとなりやすく極端な振れ幅を持った人間性であったことが想像できます。また幼少期より、何かに没頭すると周りが一切見えなくなるほど集中する子供だったようです。

有名なエピソード:好きな人に会うためランプの炎に指を突っ込む

ゴッホは、叔父の娘である従兄弟の「ケー」という女性に恋をします。ケーは、若くして夫を亡くしており、ゴッホの父の牧師館に子供と滞在していました。その当時、本格的に絵を描くため実家に戻ったゴッホはケーを好きになり、熱烈にアタックしますが、断られます。

その後、実家に戻ったケーを追いかけゴッホは自宅まで押しかけ、両親が食事中にもかかわらず、「ケーに会わせてくれ」と頼むゴッホ。もちろん断る両親。

そうしたら、ゴッホは火のついたランプの中に指を突っ込みます。「こうやって私が炎に手をかざしている間だけでいいからケーに会わせてほしい」と脅迫的な申込みをしたことが有名です。

ハリーポッターのドビーのような自傷性です。

有名なエピソード:自ら耳を切って娼婦に渡す

『黄色の家』@ゴッホ美術館

ゴッホは芸術家たちとの交流を強く望み、芸術家達が一緒に住む理想郷をフランスのアルルに作ろうと試みますが、付いてくる者はいませんでした。

そんな中、先輩画家の「ゴーギャン」だけがアルルに来てくれることに。実は有名な「ひまわり」はゴーギャンを迎えるために、家のインテリアとして描き始めたものでした。二人はゴッホの作品でも有名な”黄色の家”で、一時はお互いを尊敬しあい暮らしていました。

ただゴーギャンとの共同生活は約2ヶ月で破綻します。元からゴーギャンはゴッホの夢に共感したわけではなく、弟のテオが生活費などを援助してくれることを条件にアルルに行っていたのです(ゴッホは知らない)。

そのため意見の違いが多かったり、たまに激情するゴッホとの共同生活に耐えられないのも当然です。激しい討論の末、ゴーギャンはゴッホにアルルを去ると伝えます。ゴッホは絶望し、数日後に自分の耳を切り落とします。

『耳切事件後の自画像』@ゴッホ美術館

耳を切り落とした理由は、諸説ありますが、アルルでの共同生活はゴッホにとって夢でした。それが尊敬する画家仲間の裏切り(ゴッホにとって)に合ったのは、精神的に追い詰められる大きな理由であったに違いません。

さらに、切った耳を知り合いの娼婦に送りつけるという奇行を行いました。当時、地元の新聞「ル・フォロム・レピュブリカン」で以下のように報じられています。

『ル・フォロム・レピュブリカンの一文』@Wikipedia

オランダ出身のヴァンサン・ヴォーゴーグと称する画家が娼館1号に現れ、ラシェルという女を呼んで、「この品を大事に取っておいてくれ」と言って自分の耳を渡した。そして姿を消した。―――哀れな精神異常者の行為でしかあり得ない。

この事件をきっかけにゴッホは精神病院へ入ることになり、その後も精神の病と戦い続けることになります。

ゴッホの生涯を作品と共にわかりやすく紹介

ゴッホ美術館のゴッホ年表

ゴッホの人生は波瀾万丈すぎます。オランダのゴッホ美術館でも色々と文献を見てきたので、ここで紹介させてください。

画家になる前の方が人生長いので画家からの人生を知りたい人はコチラをタップ。ちなみに以下記事ではゴッホを題材にした映画も紹介しています。

幼少期 – 中学校中退の問題児

1853年3月30日、ベルギーとの国境近くのオランダ南部ズンデルドに生をうけたフィンセント・ファン・ゴッホ。代々聖職者や画商を排出する家で、父も牧師。ただお金に余裕がないため副業で農家をしながら家庭を支えていました。

ゴッホは幼少期の時より、扱いづらい子供であったと多くの文献で語られており、感受性が強く、カンシャク持ちで、何事にも極端に思い詰める性格だったようです。

勉学が優秀だったゴッホは13才の難関の国立中学校に受かりますが、性格が災いしてか、突如退学しています。(経済的問題説もあり)

無断で出掛けては、草木や昆虫などを眺めて育ったようです。ゴッホが自然崇拝的になっていくのもこの頃の経験があるかもしれません。

兄弟の中では1人だけ絵が上手く、11歳の時に父の誕生日プレゼントで贈った絵を見ると、才能の片鱗がすでに見えていました。

『農場の家と納戸』@Wikipedia

小学生が書いたとは思えません。今でも私はこんな絵描けません。

画家になる前 – 画商として働くが失恋により無職

『ゴッホ18歳の写真』@Wikipedia

経済的な理由からもゴッホは16歳の時に叔父が経営する「グーピル商会」のハーグ支店で、絵を販売する画商として就職。弟のテオも兄を追って3年後に同じ商会で働き始めます。

この時から版画や挿絵を約1000点集めたり、画家との交流をしていたため、絵のインプットを沢山していたようです。ちなみにこの時、日本の岩倉使節団がこの商会のすぐ近くの宿に泊まっていたらしく、もしかしたらゴッホは岩倉具視や木戸孝允とすれ違っていたかもしれません。ロマンです。

4年間の働きぶりが評価され、ロンドン支店に栄転しますが、そこの下宿先で知り合った女性「ウジェニー」に恋をします。

彼女にはすでに婚約者がいるにもかかわらず、想いを告げ、婚約を破棄してほしいと申し込みますが、手ひどくフラれます。

この経験が心に大きなダメージを負わせ、仕事が全く手につかなくなります。その結果、最後は無断欠勤で解雇されます。

画家になる前 – 牧師を目指すも狂信的すぎて解雇

23歳となったゴッホは、その後イギリスの学校で教師をしたり、書店の仕事に就きます。

父の跡を継いで牧師になることを考えつつあったゴッホは、聖書の翻訳に携わったりと宗教との関わりが増える中で、聖職者への道を目指します。

ゴッホは、グーピル商会の時の伝手で伝道師見習いとして聖書を説く仕事を始めます。

ブラックカントリー – ボリナージュ』@ベルギー王立美術館

ベルギーの炭鉱地で貧しい炭鉱労働者と一緒に暮らし始めたゴッホは、元から「誰かを救いたい」という宗教的情熱が高く、着る物がない人になけなしの服や所持品を与え、ベッドで寝ることをやめ、1日何時間も説教に取り組みました。

その結果、ゴッホは伝道師見習いもクビになります。

というのもゴッホのやり方は普通の伝道師の行いから常軌を逸しており、認められないやり方だったためです。担当エリアの指導者たちはドン引きしていたようです。

ゴッホ本人としては、貧しい人々の暮らしを理解したいという想いやイエスと同じ生活を実践したいという考えだったようです。

ゴッホは欲求に素直で、やることをとことん突き詰める性格。ただ秩序を重んじることができませんでした。

一方で、ゴッホの弟テオはグーピル商会で出世をしていき、経営者層となっていきます。

伝道師の道を絶たれたゴッホは浮浪者のように裸足で、ブリュッセルまでの70キロを歩きました。そこで出会った絵好きの牧師から絵を褒められ、ゴッホは心の拠り所を宗教→絵へとシフトしていきます。

画家を目指す – 娼婦と同棲から結婚破綻

26歳のゴッホはこの時から独学で絵を始めます。北フランスで真冬でも小銭しかなく、デッサンの代わりに農家からパンをもらホームレスのような生活をしていました。この時からテオが仕送りを始めます

親からの援助が、実はテオからの援助だったことを知ったゴッホは申し訳なくなり、実家に戻ります。そこで「有名なエピソード」でも紹介したランプの炎に指突っ込み事件を起こし、父を激怒させ実家を追い出されます。

その後、画商の時に働いていたオランダのハーグに戻りますが、そこで子持ちの娼婦「シーン」に出会い、当初は貧しい彼女を助けてあげたい気持ちからモデル料を渡します(これもテオからのお金)。

『シーンを描いたチョーク画』@Wikipedia

最終的には愛情が芽生え、彼女と結婚することを決意しますが、さすがのテオも絵を描く理由でもなく、仕送りを止めます。仕送りなくして養うことはできず、シーンとも喧嘩が絶えなくなり、同棲は解消されます。

数ヶ月後、ゴッホは苦渋の選択である実家帰りをします。ここまでの人生でゴッホは悲しみや貧しさというものを痛いほど目にし、経験した画家になりました。

画家を目指す – 凄まじい勢いで絵が上達する

実家に戻ったゴッホは、今までで最も絵に集中できる環境となり、格段と絵が上達します。ここでゴッホ初期の代表作である「ジャガイモを食べる人々」を描き上げます。この時ゴッホは32歳になっています。

ジャガイモを食べる人々

ジャガイモを食べる人々の絵
『ジャガイモを食べる人々』@ゴッホ美術館

まだまだTheゴッホな明るい色調ではありませんが、ゴッホらしいデフォルメと写実性の狭間。絵の背景を知ると、ゴッホが「知性の画家」だったことが分かります。実はゴッホはこの絵を”わざと下手に描く実験”をしていました。

『ジャガイモを食べる人々の解説手紙』@ゴッホ美術館

ゴッホの手紙に残っていますが、この絵では「文明化された人間たちとはまるで違う生き方を考えさせることを意図した」とあり、あえて無骨なスタイルで、「なんて下手な絵だと言われるかもしれない」と記しています。ゴッホの前衛的で、研究熱心姿勢が垣間見えます。

実家に戻って絵に没頭していたゴッホですが、父が突然亡くなり、その後またも女性関係での問題が起き、実家に居づらくなったこともあり、ベルギーへ移ります。「アントワープ美術学校」に通い、この時期に日本の浮世絵に出会います。色鮮やかな色彩や大胆な構図に衝撃を受け、その後の作品に大きな影響を及ぼします。

左は溪斎英泉の作品が載った雑誌『パリ・イリュストレ』 右がゴッホが模写した『遊女』@ゴッホ美術館

パリ時代 – 開花し始めるゴッホと苦悩する弟

『自画像あるいはテオの肖像』@ゴッホ美術館

ベルギーでも絵は1枚も売れず困窮したゴッホは、弟テオのいるパリに行き同棲を始めます。

手紙で前置きもせずに急にパリに来て、同棲するぞ!ってどうかしていますが、テオは了承し、新しくアトリエを置ける部屋にも引っ越します。

パリで過ごした期間は、わずか2年ほどでしたが、この期間にゴッホの絵は華やかな色彩を得ることで、大きく開花し始めます。

『麦わら帽の自画像』@デトロイト美術館

この時期から多く自画像を残していくゴッホですが、この『麦わら帽の自画像』からもわかるように色彩が非常に豊かになっています。

というのも芸術の都パリではこの時期、印象派が世間で台頭し始めていて、ゴッホも浮世絵同様に大きく影響を受けていきます。この間に後の巨匠ゴーギャンやスーラと出会い交流を深めてもいました。

『求愛中のカップルのいる庭園:サンピエール広場』@ゴッホ美術館

変わらず金銭的には困っていましたが、画材屋を営む無類の絵好き・タンギー爺さんが、貧しい芸術家たちに画材を提供してくれていたおかげで、なんとか活動を続けられていました。

『タンギー爺さん』@ロダン美術館

ちなみに一緒に暮らしていたテオは、金銭援助のために懸命に仕事をしていましたが、家に帰るとゴッホの小言や時折かけられる冷たい言葉に精神的にまいってしまい、同棲を解消しようと考えていました。

そんな中でも妹に宛てた手紙では、以下のように綴っていて、彼がどれだけゴッホの才能を信じ、献身的に支えようとしていたたが、痛いほど伝わります。

「彼は本当の芸術家だ。真の芸術家を支援しないというのは、画商として、一人の人間としての僕の義務を放棄することになる。だから僕は、兄さんを支援し続けることにする。いずれ兄さんは、後世に残る素晴らしい作品を制作するようになるだろう。そのような芸術家を支援しないのは、画商として、人間として許されることではない」Doi Yozo. Gogh ga kataru Gogh no shougai (Japanese Edition) (p.219). Maximilien Publishing.

アルル時代 – 自分の色彩を手に入れる

『収穫』@ゴッホ美術館

絵が売れないストレスや交流のあった画家仲間と意見が合わなくなったこと、同時にテオに結婚の話が出たこともあり、ゴッホはパリを離れることを決意します。

彼は日本へ強い理想を抱いていて、浮世絵から想像する日本は、非常に空気が澄んで、陽光にあふれ、遠くまで見とおせる土地だと信じていました。

南フランスのアルルが最もその日本のイメージに近いのではないか、と考えたゴッホは新しい光を見つけにアルルへ移住します。

ここで有名なエピソードで紹介したように画家仲間を集め、ゴッホにとっての理想郷を作ろうと試みますが、結果失敗に終わります。

しかし、アルル時代は、有名な『ひまわり』を始め、ゴッホが独自のスタイルを確率した時期でもあります。これまでの研究が統合され、自分なりの色彩・筆触・構図を手に入れました。

夜のカフェテラス画像
『夜のカフェテラス』@クレラー=ミュラー美術館

精神病院サン・レミ時代 – さらなる絵の高みへ

「耳切り事件」の後に、ゴッホは危険人物と見做され、アルルの住民たちは「あのイかれたオランダ人を追い出してくれ」と市長へ嘆願書を出します。

結果、ゴッホはアルルの精神病院へ強制収監され、この時期から突発的な幻覚・幻聴・錯乱を起こすようになります。石炭の入ったバケツで顔を洗うこともあったようです。

弟のテオや理解ある牧師などに助けられ、最後はアルルから20kmほどの場所にある、サン・レミの療養院へ入院する事を決意します。

精神的にも非常に辛い時期ですが、ゴッホの絵はさらなる高みへと昇っていきます。

星月夜
『星月夜』@MoMA

この時期からゴッホの絵は”うねり”と”混色”の二つが加わります。

”うねり”について、学者の中ではゴッホがてんかんを患っていたことによる「アウラ体験」(空間がゆがんで見えるなどの症状)という現象が原因であったのではないか?という説もあります。

ただ多くの学説では、ゴッホがそれまでにインプットしてきた画家たちの筆触や自分の厚塗りなど統合した結果という方が信じられています。またこれまでは使用頻度が少ない茶系を主とした混色も用いるようになります。

さらに輪郭線以外にも黒を大胆に入れることで、印象派とも一線を引く、ゴッホ独自の世界観を創造することに成功しました。

『糸杉のある麦畑』@メトロポリタン美術館

『ひまわり』の時期からゴッホの絵は徐々に評価され始め、この時期にはモネやピサロ、美術評論家たちから絶賛されるようになります(本人は自身の絵に満足しておらず、評論家からの批評を取り下げてくれと弟に頼んでいます)。

そしてこの時に唯一『赤い葡萄畑』が購入されています。

『赤い葡萄畑』@プーシキン美術館

ここから2ヶ月後にゴッホは亡くなってしまいますが、もう少し生きていたら、自分の絵が正しく評価され生計を立てられるようになっていたかもしれません。

オーヴェール時代 – 死ぬまでの最後の2ヶ月

『オーヴェールの風景、雨の後』@プーシキン美術館

1年の療養をしていたもののあまり良くならないこともあり、テオはよりゴッホの心が休まる環境を探します。

そこで医師でありながら、芸術家のパトロン的なことをしている医師ガジェのいる、オーヴェールという村に移住します。

医師ガジェはかなりの変わり者であったらしく、ゴッホは「この医者は自分より病気かもしれない」と残していますが、芸術に明るいガジェとはとても良好な関係であったようです。

なお、サン・レミからオヴェールへ行く途中に、テオのいるパリへと立ち寄ったゴッホは自分と同じ名前が名付けられた甥っ子のフィンセントと対面しています。(ゴッホは甥っ子をめちゃめちゃ可愛がっていた)

しかし、オーヴェールに移った2ヶ月後にゴッホはリボルバーお腹に撃ち、自殺します。

烏の群れ飛ぶ麦畑
『カラスの群れる麦畑』@ゴッホ美術館

この理由は自殺・他殺説ありますが、私は自殺説派です。

というのもゴッホはイメージ的に横柄で誰かの迷惑など気にしない!など言われることがありますが、逆だからです。ゴッホは弟への手紙の中で、自分への支援がテオに負担をかけている罪悪感を何度も記しています。

さらにこの時期は精神的にも不安定であり、唯一の望みである絵が売れることはなく、描けば描くほど弟を苦しめる結果になっていました。

テオはこの時、妻子の病気や仕事がうまくいっていない状況を手紙で相談しており、それがゴッホの自殺決定打になったとも言われています。

元々、周りが見えなくなるタイプで、人一倍優しさも持ち合わせていたゴッホのことを考えると、本当に追い詰められていたのだと思います。

ゴッホは銃を撃っても即死せず、2日間生きており、その間になんとかテオは兄の最後を見届けます。1890年7月29日、37歳でゴッホは亡くなりました。

そして、人生の指針を失い、ひどいショックを受けたテオは精神の病にかかり、わずか半年後、後を追うように33歳の若さで亡くなります。まさに一心同体な兄弟でした。

ゴッホの絵が世界に広まった理由

ここまで読まれた方はお分かりのように、ゴッホが絵を描き続けられたのは、弟テオの人生をかけた献身的な支えがあったからです。

ゴッホの手紙は900通近く残っていますが、その多くがテオに宛てたものでした。テオは金銭関係だけでなく唯一ゴッホが心を許せる相手でした。

そしてゴッホが亡くなってから勝手にゴッホの絵が評価されていったわけではありません。ゴッホの名声を確立すべく奔走した人がいます。それが弟テオの妻ヨハンナ(通称ヨー)です。

『ヨハンナ・ファン・ゴッホ』Wikipedia

彼女は「絶対にゴッホを有名にしてやろう」と思っていました。このモチベーションはゴッホの絵が好きだったことや、生計を立てるため、テオの意志を継ぐことなど様々な理由が語られています。

ただ個人的に味わい深いなと思ったのは、”ゴッホへの自責の念”という理由。この根拠は彼女の手紙にあります。

私たちの家に来た時、もっと優しくしてあげればよかった。ぜひ、フィンセントに会ったら、この前会った時、あんなにイライラしていたことをどんなに申し訳なく思っているか伝えておきたかった。ヨハンナ・ファン・ゴッホ

ゴッホが一度だけパリにテオたち一家を訪れた際、子供が病にかかっており大変な時でした。そんな時にゴッホのお世話をしていたにもかかわらず、ゴッホから自分の絵の飾る場所が気に食わないなど小言を言われたようです。この時に余裕がないヨーはきつい態度でゴッホに当たってしまったのかもしれません。

もしこの時、もっと寛容でいてあげればゴッホは罪悪感ですぐに自殺しなかったかもしれない、夫も死ななかったかもしれない、と考えたのであれば、何とも切ないです。

ヨーは、”ゴッホの手紙と一緒に作品を美術評論家に送る”という革新的なプロモーションを行います。理解されづらい前衛的なゴッホの絵に、その背景やゴッホの人生の物語を知ってもらうことが狙いでした。そのため四半世紀かけ、ゴッホの手紙を収集して、整理し、書簡全集を発刊しました。

これがなければ、ゴッホという人間はもちろん、ゴッホが何を考え『ひまわり』や『星月夜』を描いたのか誰もわかりませんでした。現存する手紙はゴッホ美術館に保存されています。

ゴッホの手紙

さらにゴッホの作品が散逸しないように買い戻したり、粘り強く展示会を開いていくことで、ゴッホの知名度はぐんぐん上がっていきました。

「フィンセントの絵を好きになってもらうまで、あきらめない」ヨハンナ・ファン・ゴッホ

弟テオの献身的な支えと、その妻ヨーの諦めない心によりゴッホという人間が世界に広まったのでした。

日本の浮世絵がゴッホに与えた影響

@東京富士美術館/@ゴッホ美術館

ゴッホのみならず、当時の印象派の代表格であるモネやルノワールなど名だたる巨匠に影響を与えた日本の芸術。ゴッホはとりわけ浮世絵から、大胆な構図や輪郭線の描き方、自然をそのまま描くスタイルなど多くを吸収しました。

気に入った浮世絵をテオと集め、自宅に飾り、模写を試みています。ゴッホ美術館では、ゴッホ後期の絵にも浮世絵らしい線の描き方を感じられて誇らしくなりました。ゴッホの日本への知識は非常に偏っていてましたが、その結果アルルへと移住し、明るい色彩をふんだんに取り入れるようになったため、浮世絵無くしてゴッホの絵は今のようにならなかったのではないかと思います。

以下の葛飾北斎の生涯やエピソードをまとめた記事では、別視点での浮世絵による影響をまとめています。

ゴッホ作品を10倍楽しめる本や映画を紹介

ゴッホの波瀾万丈な人生や彼の作品性をより理解するのにおすすめな作品を3つ紹介します!

『たゆたえども沈まず』 – 原田マハ

簡単な作品紹介

芸術×小説といったら「原田マハ」さん。画家ゴッホと日本人の絆をフィクションで描いた物語。史実とフィクションの織り交ぜ方が絶妙で、ゴッホだけでなく弟のテオや日本の画商などの人物も実に魅力的に描かれている。特に好きなのはタイトル。このタイトルがゴッホ、テオ、引いては芸術家たちの想いでもあるように感じた。読み終わったらゴッホの作品解説を読まずにはいられなくなるはず。

『ゴッホ作品集』 – 富田章

簡単な作品紹介

ゴッホ作品集の日本語決定版!『夜のカフェテラス』が表紙になっている。アートブックとしてオシャレで、家に飾りたくなる一冊。ゴッホの作品について、各時代ごとに紹介されており、絵の背景解説などがあるのでゴッホのことを分かりやすく深ぼれる。

映画『ゴッホ ~最期の手紙~』

簡単な作品紹介

全編油絵をアニメにするという狂気じみたゴッホへの愛を感じる作品。なんと125名の画家たちがゴッホのタッチを再現しながら描いた。ゴッホの手紙に焦点を当てて、ゴッホの死の真相に迫るドキュメンタリーであり、サスペンス性もある面白い作品。ゴッホの絵が好きな人は絶対観た方がいい。

【まとめ】1人の情熱で世界は変わる

冒頭で、ゴッホを「狂気の画家」と呼ぶのは誤っていると書きましたが、間違いないのは「情熱の人」であったことです。

どんなに作品や自分を否定されようが、ゴッホの作品性は揺らぎません。研究熱心なゴッホは”売れる絵”を理解していたはずですが、それには従わず、”自分だけの絵”を創り出しました。

「画家にとって最も重要なことは、その作品によって次の世代、相次ぐ世代に語りかけることだ。したがって画家の生涯にとって、おそらく死は最大の困難ではない。」フィンセント・ファン・ゴッホ

ゴッホの情熱がその後の芸術を変えました。引いては芸術から糧をもらう我々の人生にも少なからず影響しているはず。

少なくとも、ゴッホの絵によって私のリビングは華やぎ、日々に彩りが増えました。ありがとうゴッホ、テオ、ヨー。

YuRuLi
サイトの管理人
TOKYO | WEB DIRECTOR
Youtube登録者19万人。
本業以外に、日常に溶け込むプレイリスト動画の作成や音楽キュレーションの仕事も。音楽、ガジェット、家具、小説、アートなど、好きなものを気ままに綴っていきます。自分の目や耳で体験した心揺れるものを紹介。
ゴッホ生涯のアイキャッチ画像

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