私について何か知りたい人は、私の絵を注意深く見て、そこに私の人間性を、私が言いたいことを読み取るべきである。
グスタフ・クリムト
煌びやかでロマンチックなグスタフ・クリムトの《接吻》。
現実を超越した世界を、”金”の装飾を使ってデザインしたこの作品は、彼の最高傑作と言われています。
今回は、クリムトが「読み取るべきだ」と語るその言葉に従って《接吻》を紐解いていきます。

30代でできたあだ名は「分析」。今月の名画では、作品紹介を通じて読む人の感情が動くこと、新しい発見につながることを願いながら記事を書いています。最近、noteもはじめました。
【作品解説】接吻
まるで「二人だけの世界」が存在しているような、不思議な神秘性がある《接吻》。
クリムトは、三次元的な立体感と二次元的な平面性を絵の中に共存させ、この世界観を表現しています。
そうして作り出されたロマンチックな世界の奥には、いったい何が描かれているのでしょうか。

描かれているのは神話か?恋人か?
この点については諸説あり、神話モチーフ説と恋人モデル説の両方が存在します。
神話『アポロンとダフネ』をテーマとして借りながら、クリムト自身と長年のパートナーであった エミーリエ・フレーゲを描いた説が有力です。

ただ、クリムトはプレイボーイで、この時期もエミーリエのほかに 3 名ほど親しい女性の存在が確認されています。
そのため、モデルを断定することはできず、真相は今も静かに闇の中です。
彼とエミーリエは生涯を通してプラトニックな関係だったと伝えられています。
だからこそ私は、クリムトにとって特別な存在であった彼女が、この作品のモデルであることを願っています。
神話との親和性
神話「アポロンとダフネ」は、アポロンがダフネに激しく求愛し、逃げ続けたダフネが限界を感じた末に、月桂樹へと姿を変えてしまう物語です。
神話『アポロンとダフネ』について

アポロン(ゼウスの息子で多才な神)が恋の神エロスをからかった。
怒ったエロスはアポロンに「恋に落ちる矢」を、川で遊んでいたニンフ(女性の姿をした妖精)のダフネには「相手を拒む矢」を放った。
それ以来、アポロンはダフネに求愛し続け、ダフネは必死に拒み続ける。
やがて追い詰められたダフネは、父である川の神に「姿を変えてほしい」と願い、彼女の身体は月桂樹へと変わっていった。
あと一歩で触れられそうだったダフネが月桂樹に変わっていく姿を目にしたアポロンは深く悲しみ、その後、彼は月桂樹の冠を身につけるようになった。
《接吻》の男性は、女性の首元をしっかり抱き寄せています。そして女性は、“崖の縁”のような場所に立っている。

この構図から、求愛され、男性から逃れられない状況まで追い詰められた瞬間を描いているようにも見えます。
そのため、この神話をもとにしたのでは、という見解も語られてきました。
また、男性の頭上に描かれた葉の冠は、アポロンが身につけていた月桂樹の冠を思わせます。

女性への強い愛情を示すモチーフとして神話の要素を取り入れたと考えると、とても趣深い表現です。
四角が男性、丸が女性。螺旋は何?
《接吻》では、男性は白・黒・銀の四角いパターンのローブをまとい、女性は金色を中心に、鮮やかな円や卵形のモチーフで描かれています。
「四角は男性、丸は女性」という象徴解釈はよく知られていますよね。

しかし、よく見ると男性のローブにも、曲線が渦を巻くような“螺旋”の模様が複数描かれているのです。
螺旋は、古代から「生命の循環」「再生」「成長」を表す普遍的なシンボルとして使われてきました。

このモチーフがのどこに置かれているのかを見ると、男性の“おへそ”のあたりと“生殖器”のあたりに集中しています。
おへそはかつて母親と臍の緒でつながっていた場所。生殖器は新しい命が作られる場所。どちらも “生の起点” と呼べる部位です。
四角の中にさりげなく置かれた螺旋が、男性の身体の内部に宿る生命の力を示しているように思えませんか?
クリムトは他の作品でも、螺旋をしばしば描いています。

目に見えない「生命」を抽象的な形に置き換えた結果、《接吻》は“ロマンチックな恋人たち”を超えて、愛の延長線上に命が生まれることまで語り始める作品になっているのかもしれません。
クリムトが描いたのは愛だけじゃない
本作では、男性と比べて女性の体の周りに“オーラ”のような金の光が大きく広がっています。

さらに、二人の立つ場所も崖なのか草原なのか曖昧で、立体と平面が混在した、不思議な空間として描かれています。
その“説明しきれない違和感”を追いかけていくと、クリムト研究者たちが指摘する、もうひとつの構造にたどり着きます。
男性の身体は柱のようにまっすぐ立ち、二人を包む金の形は 男性器を想起させるフォルム。外側にやわらかく広がる金箔の“オーラ”は女性器を象徴する形として読み解かれることがあります。
そして背景に広がる花畑のような平面は、二つのエネルギーが溶け合う“融合の場” とも解釈されています。

こうした読み解きは、刺激的な意味合いではなく、クリムトが “生きることそのもの” を描こうとした結果だと考えられています。

彼にとって「愛」と「性」は切り離されたものではなく、その連続の先に “生” がある。そんな世界観が《接吻》に宿っているのかもしれません。
クリムトってどんな人?

グスタフ・クリムト(1862年 〜 1918年)は、オーストリア帝国時代のウィーン郊外に生まれました。
父は金細工や彫版を手がける職人、母は盲目のオペラ歌手。7人兄弟の多い家庭で、暮らしは決して豊かではありませんでした。
14歳で奨学金を得て美術学校へ進学し、3年後、弟エルンストと共同制作を始めます。
後に二人はアトリエを構え、“芸術カンパニー”を設立。建築装飾を中心に活躍し、すでに将来を嘱望されていました。
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28歳になる頃には“売れっ子画家”となっていたクリムトですが、30歳前後で父と弟を立て続けに亡くし、彼は大きな喪失を経験します。
芸術カンパニーも解散し、そこからは肖像画の仕事が増えていきました。

35歳になると、ウィーンの保守的な芸術界に違和感を覚え、新しい芸術運動「ウィーン分離派」を結成します。クリムトは、目に見える物を美しく描くのではなく、「目に見えないもの」を描こうとしました。
時代にはその芸術を、芸術にはその自由を
ウィーン分離派 スローガン

晩年のクリムトは55歳で脳卒中を起こし、1ヶ月後に帰らぬ人となりました。
クリムトは生涯独身でしたが、プレイボーイで、認知しているだけでも14人以上の子どもがいたと言われています。
人気絶頂期には、妊娠中の恋人が複数いるにも関わらず、17歳の少女を追いかけ回していたというエピソードも残っています。
しかし、彼が生涯大切にした相手はただ一人。ウィーンでファッションデザイナーとして活躍していたエミーリエ・フレーゲ でした。

二人はずっとプラトニックな関係だったと伝えられています。
浮名を流し続けたクリムトの最期の言葉は、「エミーリエを呼んでくれ」でした。
クリムトの接吻はどこで見れる?
ベルヴェデーレ宮殿 オーストリアギャラリー
《接吻》が所蔵されているのは、ウィーンのベルヴェデーレ宮殿 オーストリアギャラリーです。
ここに行けば《接吻》はもちろん、彼の名作を鑑賞できます。


ここから30分ほどお散歩をすると、分離派会館(セセッシオン)があります。
そこには、クリムトが第14回ウィーン分離派展のために制作した大作《ベートーヴェン・フリーズ》を見ることができます。
イマーシブミュージアムで「接吻」が鑑賞できる!
2025年12月20日〜2026年3月31日に横浜のTHE MOVEUM YOKOHAMAにて、ウィーン世紀末芸術「美の黄金時代」グスタフ・クリムトとエゴン・シーレ~光と影の芸術家たち~ が開催予定です。
横浜の海上にできる新施設「THE MOVEUM YOKOHAMA 」で、ロマンチックな世界観に触れられるのは特別な機会になるのではないでしょうか。
こちらは、オンラインでの事前予約がおすすめです。当日販売チケットは、料金設定が高く数に限りがあるようです。
| 開催期間 | 2025年12月20日(土)〜2026年3月31日(火) |
| 場所 | 〒231-0023 神奈川県横浜市中区山下町279-9 |
| アクセスについて | https://global.toyota/info/themoveum/access/ |
| 料金 | 【一般料金】 オンライン販売:3,000 円 当日会場販売:3,800 円 ※学生料金等その他は詳細URLよりご確認ください。 |
| 詳細URL | https://global.toyota/info/themoveum/ |
会場には専用の駐車場・駐輪場がないようなので、お車や自転車で行かれる方は事前チェック必須です。
日本でクリムト作品の実物は見ることができる?
残念ながら、《接吻》の実物が日本へ来る予定は現時点ではありませんが、クリムトの作品そのものは、日本でも愛知県美術館 と 豊田市美術館で鑑賞できます。

豊田市美術館には、クリムトのデッサンがいくつか収蔵されており、絵画とは違う“線の魅力”を間近で感じることができます。
ホームページ上では、所蔵されているクリムト作品の一部のオーディオガイドを公開してくれているので、ぜひ見てみてください。
【最後に】絵は口ほどにものを言う
私は手紙一本でも書くとなると恐ろしくなり、まるで船酔い寸前のように震え出すのだ
グスタフ・クリムト
クリムトが残したテキストはほとんどありません。
作品の意図を彼自身が明言していないぶん、彼の絵は“単なる装飾”か、“意味を込めた象徴”なのか、あるいはもっと大きなテーマを示す“比喩”なのか、美術史の解釈は今も揺れ続けています。
ただ、美しいと称される《接吻》から、私が感じたのは”畏怖”でした。
なぜ私は恐れに近い感情を抱いたのか、気になって調べた結果、彼の「生」への強い想いを受け取ったことに気が付きました。
美しさを感じた人は、きっとそこに込められた「愛」に触れているのだと思います。
もし《接吻》を見て、あなたの心に最初に浮かんだ感情があるのなら、それこそがクリムトがあなたに語りたいことなのかもしれません。


参考文献
「細部から読み解く西洋美術」- スージー・ホッジ 訳:中山ゆかり
「世界最高の美術館と名画100」- 永井龍之介
「もっと知りたいクリムト」-千足伸之
「クリムトへの招待」- 朝日新聞出版

