「絵は愛すべきもの。楽しく美しいものじゃなきゃらならない。」
ピエール=オーギュスト・ルノワール
印象派の巨匠ルノワール。モネやゴッホなど多くの画家が自分の内面を作品に反映するのに対して、彼は正反対のスタンス。
貧乏時代も戦争で悲惨な状況でも、ルノワールの絵は、一貫して明るい色彩で、描かれる人物の表情は穏やかそのもの。それはルノワールが「絵は人が見て楽しい気持ちになれるものであるべき」という考えだったためです。
決して順風満帆ではなかったルノワールの人生ですが、モネやセザンヌなど印象派の仲間たちと共に一時代を築きました。どんな生涯を歩み、どんな代表作を創ったのか、絵に隠されたルノワールの想いを紐どきながら紹介します。
【3分で解説】ルノワールってどんな人?

本名はピエール=オーギュスト・ルノワール。19世紀後半に絵の歴史をガラッと変えた印象派の主要メンバーの1人で、とりわけ人物画に秀でた画家です。
印象派においても、「風景画のモネ・人物画のルノワール」と言われるほど。最も高額取引されたのは代表作の「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」で、当時119億円で日本人実業家の斎藤了英が購入しました。

斎藤了英が亡くなる前に「自分と一緒にルノワールの作品を火葬してくれ」と言い残し、世界をざわつかせた話が有名です(そんなことにはならず現在はパリのオルセー美術館にあります)
実は印象派は割と実家が太い人が多かったですが、ルノワールは仕立て屋の子で、本人も13歳から5年間、陶磁器の絵付け職人として働いていました。生涯その気質が変わらず、毎日同じ時間に作業を始め、道具をきちんと整理して仕事を終えていたようです。
ルノワールの絵の特徴はなんといっても、繊細で柔らかなタッチの人物画。

作品に登場する女性たちはみな優しく穏やかな表情。モデルが画家を信頼し、画家はモデルに愛情を注いでいることがよくわかります。ルノワールは貧しい青年でしたが、とてもハンサムで、社交的だったようで、ソフトな語りのルノワールに心許した若い女性は多かったといいます。
モネと共に印象派の技法である「筆触分割」を生み出しましたが、ルノワールが得意とする人物画との相性が悪い(世間的に)ため、今でこそ人気ですが、当時そのスタイルでは全く売れませんでした。
筆触分割とは
当時、絵の具はパレットの上で混ぜ合わせ色を作ってからキャンバスに塗っていた。ただ絵の具は混ぜることで色が暗く発色が悪くなるため、チューブから出した絵の具をそのままキャンバス塗ることで明るい光の表現を獲得した。その技法が「筆触分割」。
元々アカデミックな絵を得意としていたルノワールは第4回印象派展から不参加となり、徐々に人物に対しての筆触分割は無くなっていきます。皮肉なことにその頃から売れ始めます。最終的には古典的な画風と印象派的な表現のミックス作品を生んでいきます。

晩年は、リウマチによる痛みで身体を思うように動かせなくなりますが、亡くなる日まで絵筆をとっていました。マティスなど20世紀を代表する画家などとも交流があり、その後に続く芸術家たちの道を切り開いた一人でした
【代表作品】背景と裏話を紹介
ルノワールは印象派の中でも特に作品数が多く、最も長生きしたモネが2,000点ほどであるのに対して、4,000点以上の作品を残しています。
その中でもルノワールの代表作3点を、彼の想いや裏話と共に解説します。
『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』

制作年:1876年
ルノワールが35歳の時に描いた代表作であり、世界で最も有名な絵画の一つに挙げられる作品。ゴッホやドガ、後にはピカソなど多くの芸術家が住んでいたパリ「モンマルトルの丘」。そこに実在した庶民が集うダンスホール「ムーラン・ドラ・ギャレット」を舞台にしている。
筆触分割を用いて、木漏れ日やグラスに反射する光の動き、人の表情を繊細に明るく捉えた非常に素晴らしい作品です。しかしこの頃のルノワールはまだ評価が低く、この絵も散々に批評されます。
木漏れ日が当たっている部分を「この人は頭が禿げているのか」「服にゴミみたいの付いてるけど誰もとらないのか」などと辛辣に。
売れなかったこの作品は、印象派仲間でみんなを金銭的に支えたカイユボットが買ってくれます。
パリで実際にこの作品を見てきたので、以下記事で写真と共に紹介しています。

『シャルパンティエ夫人とその子供たち』

制作年:1878年
売れない画家であったルノワールを金銭的に支援したシャルパンティエ夫人を描いた一作。世間的に不評であった人物への筆触分割を肌には用いず、背景や服のみにしたことで、サロンなどでも大評判だった。ここから売れ始めるルノワール。
豊かな経済力を背景に多くの芸術家たちのパトロンになっていたシャルパンティエ夫人。サロンを開きそこでルノワールも各界の名士、実業家、政治家、文学者と出会い社交の場を広ろげました。
ちなみに犬に乗っているジョルジェットが、後に困窮して、この絵を含むコレクションの大半を競売にかけてしまいました。
『イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢の肖像』

制作年:1880年
シャルパンティエ夫人の作品あたりから特に裕福層からの肖像画依頼が増えた。この作品はその当時に、パリのユダヤ財閥の大富豪から依頼された子供の肖像画。筆触分割は主に背景の葉のみで、服や腕は尊敬する先輩マネのような荒めのタッチ。そこに非常になめらかな肌の表現が加わったルノワールにしか描けない一作。
本来3姉妹の絵の依頼で、一枚1,500フラン(当時1フラン約1,000円)でしたが、彼女の母親が気に入らず、下の妹たちはまとめて描くように依頼が変更されてしまいました。結果、支払いも3,000フランに。
後に抜群の評価を受けたこの絵は、「絵画史上No.1の美少女」として有名となりますが、当時は使用人の部屋にかけられていたそうです。
なお、以下記事ではルノワールの代表的な12作品をより深堀り解説しているので、興味のある方はのぞいてみてください。

【生涯を解説】ルノワールの幼少期~晩年まで
絵付け職人からの出発
1841年、フランス中部の町リモージュで、仕立て屋の父とお針子の母のもと生まれたルノワール。
3歳の時、パリへ引っ越し、7歳の頃には絵よりも先に歌の才能を発揮します。後に劇音楽作曲家として有名になるシャルル・グノーが率いる聖歌隊に入り、グノーは個人レッスンをするほど。
絵の才能も幼少期から目を見張るもので、両親はルノワールの才能をどこに活かすべきかかなり迷ったようです。
結果的に、貧しい家庭であったことから13歳で陶磁器の絵付け職人として就職。幼いながらも腕を見込まれ、特に人気のマリーアントワネットの肖像を何度も描いていました。
少年ルノワールは昼食の時間に、仲間と食事をする代わりに近くのルーブル美術館で過ごすことが多く、その才能からルーブルでの許可証をもらい、巨匠たちの絵をデッサンしていました。この頃、古典的な絵画に傾倒していたことが印象派になった後も影響します。
順風満帆であればそのまま絵付け職人として大成していたかもしれませんが、機械による絵付けが広まり、ルノワールを含め絵付け職人たちはクビになります。
画塾でモネたち後の印象派メンバーと出会う

仕事がなくなったルノワールは、何でもしました。カフェの壁絵、扇子の飾り絵、紋章作りなど絵にまつわる仕事を中心に。
将来への不安は拭えずとも、絵への熱意は捨てきれず、ルノワールはとりわけ安く入れるというグレール画塾に入ります。
グレールは何も教えてくれない分、月謝が安く、とやかく言われないこともあり、自由なスタイルが好きなメンバーが多く集まりました。そこで印象派を築くモネやバジール、シスレーと出会います。

ちなみに、モネはグレール画塾に入る前は、画塾アカデミー・シェイスに通っていて、そこで他の印象派メンバーとなるドガ、ピサロセザンヌと交流がありました。
ルノワールは貧しかったため、画塾でお金持ちの息子たちが捨てる絵の具のチューブを拾い集め使っていました。そんなルノワールの境遇に近いモネとは、特に仲が良かったようです。
貧乏にめげず、ルノワールは仲間たちとフォンテンヌブローの森で写生をするようになります。当時、屋内でしか絵を描く習慣がなかったため、これは異例で、アカデミックな芸術教育から逸脱する行為でした。※補足
補足
昔は絵の具チューブがないため、外に長期保存できる絵の具がなかった。この頃にチューブ型の絵の具が発明され、加えて鉄道が開通し外に行きやすくなったことなど時代の流れが印象派を作り出したともいえる。
そこで、ルノワール含め印象派となるメンバーたちは、自分の目で見た自然の風景や人々の風俗を見るがままに描こうと進んでいきます。
この時期にモネとルノワールが同じ「ラ・グルヌイエール」という市民の行楽地を描いた絵があります。


比較すると、モネの絵は、水の範囲が広く、水のゆらめきなどを捉えた風景で、ルノワールは中央の人口島にいる人々の様子を中心に描いているのがわかります。同じように景色を観察して得られた印象をそのまま定着させていますが、二人の描きたいものが違うのが面白いです。
印象派を起こしていく
ルノワールを含む仲間たちはアカデミックな画風にとらわれることなく、新しい表現を進めていきますが、サロンでは落選続き。(この頃芸術家として有名になるには国が運営するサロンで入選するのが一般的なルート)
そこで認められなかったメンバーは、自分たちで展示会を開きました。それが後に「印象派展」と呼ばれたものです。
ルノワールは第一回印象派展で、「パリジェンヌ」「桟敷席」などを出展しますが、全く評価されませんでした。


現代に生きる私からすると、とんでもなくいい絵だななあと感じちゃいます。ちなみに「パリジェンヌ」のモデルであるアンリエット・アンリオは、当時20歳の駆け出しの女優。洋服を描くことも好きなルノワールはいろんな服を着せて、描いていました。それは仕立て屋だった母の影響かもしれません。※補足
補足
1852年にパリに開業した「ボンマルシェ」が世界最古のデパート。この時期にデパートが生まれたことで、庶民もファッションを楽しむ文化が生まれた。
傑作を生み出すが一向に認められない
その後も筆触分割を用いて、光のきらめきや人物の柔らかい表情などを巧みに描きます。
第二回印象派展では、「陽光の中の裸婦」を出展しますが、これが大酷評。

光と影の表現のために影を黒ではなく青・緑・紫などで描きますが、評論家からはそれが死体特有の「死斑のようだ」と言われる始末。
さらに第三回では、その評判を覆そうと傑作『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』を出展しますが、こちらも不評。人物の後頭部にある光を見て、「この人は頭が禿げているのか」と言われます。
このことに、非常にショックを受けたルノワールは、印象派のタッチを人物に使うことに限界を感じてしまいます。
サロン回帰で貧乏脱却
印象派展でこっぴどく批評され落ち込むルノワールでしたが、徐々にルノワールの古典エッセンスもある人物画を評価する人たちが現れます。
画商のデュランリエルは印象派全体を支援し、ジュヌ兄弟はルノワールの個展を開いてあげたり。そんなことがきっかけにある大物実業家の奥さんがルノワールに目をつけます。
それがシャルパンティエ夫人。大富豪の妻であり、かつ各界の繋がりを多く持つ彼女に『シャルパンティエ夫人とその子供たち』で認められ、ルノワールはサロンにも入選します。

夫人からも印象派サイドにあまり行くなという意向をもらい、ルノワールは第四回印象派展から不参加となります。ちなみにサロンへの出品を再開したルノワールにドガはキレ散らかしていましたが、他メンバーはルノワールの真意を理解していました。
元々ルノワールは「サロンに対抗してやる!」という攻撃的な考えではなく、ただ全力で絵に取り組みたいだけでした。結果的に、夫人経由で知り合った裕福な支援者たちから依頼が殺到し、ルノワールは39歳にしてやっと貧乏から脱却しました。
40歳で旅に出る
40歳になりパトロンも得て、安定的な収入を得たルノワールは初めての海外旅へ出ます。かっこいいのは安定を求めるのではなく、批判や反感を恐れず、安住よりも自分の追求する芸術のために旅立ったことです。
目的地は尊敬するドラクロワを魅了したアルジェリア。それはその地の強烈な陽光を自分の体で確認するためでした。

さらにイタリアでは古代ローマ時代の壁画やポンペイ遺跡のモザイク画、ルネサンス期の巨匠の絵画に触れ、デッサンを重視し写実的な技法を取り入れるきっかけとなりました。
古典主義の探究と葛藤
40代のルノワールは最も”迷い”が多かった時期と言えます。すでに『シャルパンティエ夫人とその子供たち』を描いた時には、人物の肌には筆触分割は用いず、なめらかできめ細かく美しい肌を描くようになっていましたが、旅行での経験から輪郭線を意識するようになります。
その葛藤を最も表しているのが『雨傘』。

右側が印象派らしく繊細で愛くるしく柔らかい印象、左側は輪郭線が明瞭で古典絵画のよう。5年間の歳月をかけたこの絵は二つの画法が混在しています。しかし不思議と違和感がなく、重なり合う傘が複雑でリズミカル。
古典主義の線と印象派の色彩効果の融合を試みたのでしょうか。
円熟期〜晩年
50代となったルノワールは、この時期からリウマチを患い、さらには愛妻家で知られていましたが、奥さんを亡くし、息子も第一次世界大戦で負傷してしまいます。
そんなルノワールですが、自分自身の病や状況を作品に反映されることはありません。むしろ作品は穏やかな日々の暮らしを描いたものが数多く見られます。有名な作品としては『ピアノを弾く少女たち』でしょう。

5作品ありますが、いずれも暖色系でルノワールらしい優しい空間、穏やかな人物の表情。実家で姪っ子を見ているような心安らぐ安心感を抱きました。
この自分主軸ではないことに徹底できるのが、ルノワールのすごいところ、かっこいいところだなと個人的に思います。
晩年は、古典回帰するように主題を裸婦像になっていきます。暖色をメインに豊満で生命力溢れ、自然と溶け合うような印象。

高齢になり、病気が進行していましたが、ある日、名医ゴーチェ博士の治療によりルノワールは2年ぶりに椅子から自力で立ち上がることができました。
けれどルノワールは「ありがとう先生。でもわたしは歩くのを諦めます。だってこんなに精神を集中しなくてはならないなら、絵を描く気力を失ってしまうでしょう。」と答えたのでした。
「私は今日、何かを学んだよ。」78歳で天寿をまっとうしたルノワールが、手伝いのネネットの運んだアネモネを描きながら、最後の筆を置いてこう呟いたそうです。
【交友関係】ルノワールと仲が良かった有名画家
ルノワールは社交的で優しい人間性であったため、友人も多くいました。特に仲の良かった画家と言えば、「モネ」「セザンヌ」「バジール」「カイユボット」「モリゾ」でしょう。
以下では、特に仲の良かったモネとセザンヌについて、ルノワールとの関係を少し掘り下げてみます。
モネとルノワールの関係

モネとは10代の時から画塾で仲良く写生を行っています。『ラ・グルヌイエール』以外にも同じものをモチーフとして描いた作品や、モネの家族を描いた作品もあります。


かけだしの頃、貧乏だった二人は実家がお金持ちのバジールにお世話になり、彼が大きなアトリエを借りてくれたので、二人ともよくそこに通って一緒に作品を作っていました。
実家でご飯を食べた日には、必ずといっていいほど、ルノワールがパンなどをモネに持っていってあげていたそうです。ルノワールいい奴すぎる。

セザンヌとルノワールの関係

22歳でセザンヌと出会ったルノワール。南仏生まのモジャモジャ髭男セザンヌは、人付き合いが得意ではなく、絵の基本ができていないこともあり、ドガなど一部印象派メンバーから嫌われていました。
ただルノワールは早い段階からセザンヌを評価していて、彼の物の見方や独特の感性に対してうがった評価をしませんでした。
後に、セザンヌの住むマルセイユの小さな漁村「レスタックに引越すルノワール。そこでルノワールが体調を崩した時はセザンヌの家族が手厚く看病してくれたりと家族ぐるみの付き合いでした。
セザンヌは社交的で穏やかな表情のルノワールのことを「女の子のようであった」と評したが、その後も二人の友情は長く続きました。
【陽気の求道者】ルノワールがもたらしたもの

「美しい作品には、理論も解釈も必要ないのです。」ピエール=オーギュスト・ルノワール
画家としてどんな状態、心境であれルノワールは、「絵は壁を飾るのだから、楽しく美しいものじゃなきゃらならない。」と考えていました。
結果的に難しい神話や歴史にとらわれず、そこにあるだけで心が華やぐような存在となった絵画。
批評に対して葛藤もしながら進化し続けたルノワールのおかげで、絵が我々にとって日常的のものとなったのかもしれません。いつまでも”陽気”を忘れずにいてくれたルノワールに感謝です。
参考文献
「もっと知りたいルノワール生涯と作品」- 島田紀夫
「ルノワール 色の魔術師」 – 別冊太陽
「はじめてのルノワール」 – 中川真貴
「印象派への招待」 – 新日新聞出版
「めちゃくちゃわかるよ!印象派」 – 山田五郎

