”モンマルトルの酔いどれ”として有名なフランス画家・モーリス・ユトリロ。
同時代のパリ・モンマルトルでは、稀代の天才パブロ・ピカソも絵筆を握っていたましたが、一時はそのピカソよりも売れていたため、「世界一売れた画家」と呼ばれていました。
しかし、ユトリロは8歳の頃からアルコールに溺れ、母からはネグレクト。毎日酔い潰れては暴れていたため、街の人たちからは厄介者として忌み嫌われていました。
華やかな名声を手に入れるも、満たされないグラスのように愛情に飢えたモーリス・ユトリロ。そんな彼がどんな想いでモンマルトルの街角を描き続けたのか——ユトリロが残した作品とともに、その生涯を辿っていきましょう。

「正確に、けれども面白く」をモットーにアートの世界を紹介する編集者。フランス画家たちにに魅せられrてパリ・モンマルトルも巡礼しました。記事では作品と写真比較もしています。
作品と振りかえるモーリス・ユトリロの生涯
【モデル兼画家の淫気な母】ユトリロが生まれる前
モーリス・ユトリロを語るには、どうしても避けては通れないのが母であるシュザンヌ・ヴィラドンです。
彼女はユトリロ同様に私生児として生まれ、幼い頃からお針子見習いや給仕として働き、その後サーカス団に入団しますが、空中ブランコからの落下による事故で身を引き、画家のモデルとなります。
そのサーカス団の経営するバーには印象派で有名なエドガー・ドガやモンマルトルの有名画家であるロートレックが通っていたことをヴィラドンは知っていました。その後、ルノワールやロートレックのモデル(兼愛人も)となった18歳のヴィラドン。(以下モデル作品)


ルノワールの作品には特に多く出てくるヴィラドンですが、有名な話として「都会のダンス」「田舎のダンス」があります。


左の「都会のダンス」ではヴィラドンがモデルで、右は奥さんであるアリーヌ。実は「田舎のダンス」もモデルは当初ヴィラドンでしたが、嫉妬に怒りを燃やしたアリーヌがアトリエに乗り込み「ヴィラドンの代わりに私を描いてちょうだい!」と言い、ボロ布で制作中の作品を拭き取ってしまったという逸話があります。
ヴィラドンは、その美貌や可憐さから多くの画家と付き合い、絵を習い、画家兼モデルを続けていきますが、実は18歳の頃にはユトリロが生まれていました。
そんな淫気な母親は息子に関心をしめさず、家に帰ることもほとんどなかったため、ユトリロは幼い頃から親の愛情を受けずに育ちました。この環境がユトリロの生涯を決定づけることになります。
【8才でアルコールに溺れる】哀しい幼少期

母のネグレクトにより、祖母マドレーヌに育てられることとなったユトリロですが、孤独な上に学校では暴力ありのいじめを受け悲惨な生活を送っていました。
そのため、たまに家でカンシャクを起こすユトリロに祖母は落ち着くからと、”ブドウ酒を入れたスープ”を飲ませていました。それはユトリロが当時8歳の頃の話。その後、小学生ながらもユトリロは酒に免疫がつき始め、宿題を始める前に台所へ行って、ブドウ酒を何杯か飲み干すのが日課のようになりました。
この時代、ブルターニュ地方の農民は、学校へ行く自分たちの子供に安ブランデーの小瓶を持たせることがあり、祖母からすると”子育てのちょっとした工夫”だったのかもしれませんが、ユトリロの辛い日々がその行動に拍車をかけたのでした。
そんな環境ですが、ユトリロは死ぬまで「聖女である私の母は…」と語っていて、常に母は”絶対的な存在”であり続けました。
【精神療養中に絵に目覚める】画家デビュー
15歳の時点で勉強に全く追いつけない息子を、義父であるムージスは仕事に就かせるようにします。実業家に顔がきくムージスはその後多くの仕事をユトリロに与えますが、すでにアルコール中毒となっていたため、どの仕事も1ヶ月程度でクビになります。
どうしようもないとなったムージスは17才のユトリロを病気と判断して療養所に行かせますが、9回の入退院を繰り返してもユトリロが酒から離れることはありませんでした。
そこで隣人のエットランジュ医師に母・ヴィラドンが相談した際に出た案が「絵画療法」でした。これをきっかけに、モーリス・ユトリロという画家が誕生します。(1904年・ユトリロ21歳)

「モンマニーの屋根」(1906年)はユトリロ初期の作品であり、まだ有名な「白の時代」になる前、つまりユトリロ以前の作品です。この当時はピサロなど印象派を参考にした筆触が伺えます。
まだ母・ヴィラドンもユトリロに才能があるとは露も考えてはおらず、相変わらず息子に興味をしめしませんでした。ユトリロは孤独感から酒浸りになる状態は変わらず、作品を作っては2~3フランで売り、酒代に変えていました。
ちなみにこの頃に”モンマルトルの貴公子” ”イケメンクズ画家”などの呼び名で名高いアメデオ・モディリアーニと酒友達となります。「ユトリロは最高の画家だ。酒が飲めるんだもの!」「いや、お前のほうこそ最高だ!」と大騒ぎし、毎晩飲み明かしては暴れ回り捕まります。

【酔いどれユトリロ】白の時代で絶頂期
最も酒に溺れに溺れていた1908〜1914年(24〜30歳)に、ユトリロは白を基調とした作品を多く残す「白の時代」に突入します。
そう、ユトリロは酒がより入っていた時代にこそ真価を発揮していました。

ユトリロ特有の人気のない、白を基調とした街の静寂。ユトリロは生涯モンマルトルの街を描きますが、「白の時代」の絵にはほとんど人物が現れません。
それは彼の一種の人間嫌い、人間不信の表れのように見えます。ユトリロはこうした人影のない街や教会の風景を”祈るよう”に繰り返し描いていました。実際、ノートルダム大聖堂やサンピエール教会などの絵を繰り返し描いています。

冷たい詩情をたたえたユトリロ特有の白が美しいです。
ユトリロは元々は野外での制作をしていましたが、子供達からイーゼルを蹴られたりとイタズラをされるのを嫌がって家で「絵葉書」をもとに描くこと始めています。
当初はそれも非難の的でしたが、彼の素晴らしい視覚の記憶により色彩を違えることはありませんでした。
ちなみに、この時期最もお酒に溺れていた理由は自分が紹介した年下の友人画家であるアンドレ・ユッテルが一種の神聖化までしていた母と付き合い(不倫)、そして最終的には結婚まで至ったことが大きな原因です。
27歳の頃には画商ルイ・リボードと月300フランの優先契約を結び、お金が徐々に入り込むようになっていきますが、それを「金のなる木」として大いに利用したのもまたユッテルと母のヴィラドンでした。
【貨幣製造機にされる】売れまくりの色彩の時代
年下の義父となった売れない画家ユッテルと母のヴィラドンは、ユトリロをアルコール中毒から遠ざけるという名目で、格子窓のある部屋へユトリロを半ば閉じ込め、絵画制作に集中させます。(写真を見ると、ユトリロだけ嫌そうな顔をしていて面白い)

当初全くユトリロの才能を信じていなかった母は、ユトリロが金になり始めたから”商品”価値を高めるための褒め言葉を世間へ放ちまくります。
「良く見てください!この空!私は頭がおかしくなってしまいました。本当ですとも。この空があまりに純粋で、軽妙で、流動的なのを感じ、喜びと嫉妬から気が触れてしまったのです。」と。
そうして、ユトリロは51歳で結婚するまで20年間以上監視付きのような形で実の母親から「貨幣製造機」の扱いを受けます。時たま渡されるブドウ酒の水割りをもらいつつ制作を続け、1919年に急騰した彼の作品は、1926年の競売でピカソを超える5万フランの高値をつけるほどになりました。
この頃の絵の話をしましょう。
1914年に「白の時代」絶頂期を迎え、その後数年間でまたも精神病院への入退院を繰り返したユトリロ。結果、「白の時代」の描法は無に帰し、厚い輪郭線と鈍くも明るい「色彩の時代」へ移行します。実際の写真で観ると、色彩がかなりビビットになっているのが見て取れます。(※クリックすると拡大します)


45歳の頃には「レジオン・ドヌール賞」という国の文化賞を受けるほど著名となりますが、同時にひたすら制作を続けていたユトリロは芸術上の活力も失いつつありました。
【母の次は妻に支配される】晩年期
それまで何度か「ユトリロに妻を」と考えていた母・ヴィルドンは自分が病に臥したため、本格的にユトリロのお嫁さん探しに熱心になります。
息子のためという想いもありつつ、最大の理由は自分を捨てたユッテルへの復讐でした。そう、ヴィラドンは息子より年下のユッテルに執着していましたが、捨てられてしまいます。
そしてユッテルへ「金のなる木」を渡さないため、ヴィラドンは元々友人のお金持ちで未亡人となっていたリュシー・ポーウェルとユトリロをくっつけます。
そうしてこの二人は結婚します(ユトリロ53歳・リュシー66歳)。リュシーがユトリロを連れ出し、タクシーに乗った際、ユトリロはドアから首を出して「今こそ、自由万歳!!」と叫んだそうです。やはり本人も軟禁状態であることが非常にストレスだったのでしょう。
しかし、その後は母に変わって妻に支配されます。元よりリュシーはお金と”世界的画家の妻”という「虚栄心」を満たすための結婚でした。そのため、絵葉書どころか、ユトリロ本人お作品を模倣してコピーを作るよう提案し、結局ユトリロは時たま反抗するものの、自由なく絵を量産し続けるのでした。
ユトリロは変わらず絵を描くことが好きだったのでしょうか?
この時期の取材で彼は答えています。「ええ、時折は…」と弱々しく。
リュシーと結婚してからモンマルトルの丘に戻ったのは、一度だけ。それはユトリロが亡くなった時でした(享年71歳)。彼は53歳でモンマルトルを離れたのちも、モンマルトルの丘で見た街の風景を生涯描き続けて亡くなったのでした。
どちらが幸せなのか? 正反対のゴッホの生涯
私がユトリロの生涯を学んで、真っ先に思い浮かんだのは、ヴァン・ゴッホでした。

彼は生前1枚しか絵が売れず常にパンとコーヒーだけの生活と非常に困窮した生活を送っていました。しかし、37歳で自殺(他殺殺もあり)するまで執念とも呼べるレベルで一心不乱に生命を使い切って作品作りをしていました。
この「売れない」「自分本位」という点でユトリロとは正反対。さらにはユトリロの場合、家族が支援というよりも搾取する側でしたが、ゴッホには最愛の弟・テオが人生を懸けてバックアップしていました。
愛情を注いでくれるて揺るがない存在をゴッホは持っていたんです。それも加えると、とにかく真逆な生涯を送っていた画家二人です。どちらが幸せなのかそれは誰にも分かりませんが、画家たちの波瀾万丈な生涯というのは本当に興味深いです。
ゴッホの生涯をより知りたい方は以下記事をご覧ください。

何がすごい? モーリス・ユトリロの評価
技術的な話になっていくと、専門家が話すべきことかと思うので、普段絵画を趣味としている鑑賞者としての個人的な批評となります。
「なぜ彼がそんなに売れたのか?」が疑問の方もいるのではないでしょうか。いわゆる絵の上手い画家でいえば、印象派前でいえばいくらでもいます。少し前でも、例えばルノワールの繊細で華やかな絵の筆触やドガの圧倒的デッサン力などとは比べるまでもないように感じます。
実際にユトリロの作品をこの目で鑑賞しましたが、基本いずれも鈍色のどんよりとした雰囲気を纏っていて個人的にはずっと観ていたい気持ちにはなりませんでした。(ここは本当に人それぞれ)
それでも、他の名だたる画家たちとの決定的な違いとしては「モチーフ」と「ニュアンス」にあると感じました。
ユトリロだけが捉え続けた”モチーフ”
ユトリロほどモンマルトルに異常にこだわった画家はいません。この時代すでに芸術家たちが多く住む街として地価が大きく上がっていたようで、モンマルトルという街は非常に注目されていました。芸術家・詩人たちが集まる“ボヘミアン”な雰囲気を持ち、観衆・購入者にとってロマンを感じさせる対象だったのかもしれません。
ユトリロだけが放ち続けた”ニュアンス”
誰がみても彼の作品からは”孤独”や”哀愁”といった寂しさを感じます。さらに彼の人生を紐どいていくと、「そうなるだろうな」と共感せざる得ない物語性がを感じないでしょうか。
このなんとも言えない寂しいアンニュイなニュアンスが当時のパリ市民に強く刺さったのではないかと想像しました。ちなみに私自身、冬にモンマルトルの丘を訪れたことがあるのですが、まさにユトリロが描いたような一抹の寂しさを感じました。


【最後に】世界一売れた画家の正体は愛に飢えた孤独な人

いかがでしたでしょうか。
最初から最後まで中々うかばれないユトリロの生涯を知ると、なんだかやり切れない気持ちに私はなりました。
世間からいくら認められようと、お金を稼ごうとユトリロは「どうでもいい」といった趣旨の言葉をこぼしています。それは彼にとって欲しかったものは手に入らなかったからではないでしょうか。
ユトリロが欲しかったもの、それは「愛と自由」。それに許されるなら、「ブドウ酒」です。「愛と自由」なんて、まさにフランスのシンボル。さすが”モンマルトルの申し子”です。
パリに行くことがあれば、ぜひ「モンマルトルの丘」を目指してください。ユトリロの描いた”哀愁”が少しばかり残っているはずです。
参考文献
「ユトリロの生涯」- J・P・クレスペル
「UTRILLO(ユトリロ)」- 千足 伸之
「モーリス・ユトリロ展」- ジャン・ファブリス/ジャクリーヌ・マンク

