ベルト・モリゾ「ゆりかご」姉妹の運命が交差する瞬間を解説

印象派を彩った女性画家のひとり、ベルト・モリゾ。今月は、彼女が第1回印象派展に出展した作品《ゆりかご》をご紹介します。

この作品には、生まれたばかりの赤ん坊を見守る姉・エドマが描かれています。

“当たり前の一瞬”を絵にした本作品は、150年ものあいだ人々の心を掴み続けているのです。

本記事では、その背景やベルト・モリゾ自身の歩みに触れながら、作品の魅力をひも解いていきます。

しろみ

読んでくれた人が少しでも心地よく、心が豊かになることを願って記事を書いています。本記事は幼少期に考えた「数滴のバニラエッセンスがもたらす効果」が役立ちました。noteはじめました。

目次

【解説】《ゆりかご》は幸せな絵なのか?

ベルト・モリゾ(1841年~1895年)が31歳で描いた《ゆりかご》は、1874年の第一回印象派展に出品されました。

ベルト・モリゾ「ゆりかご」©︎Wikipedia
ベルト・モリゾ「ゆりかご」©︎Wikipedia

この作品をより楽しむには、彼女が生きた時代背景と、姉・エドマとの関係性を知ることが欠かせないと思います。

ここからは姉・エドマと区別するために、彼女を「ベルト」と呼び、解説を進めていきます。

「時代」の当たり前を無視

ベルトが生まれた時代、女性が画家になるにはかなり厳しく、女性が絵筆を持てるのはせいぜい「花嫁修行の一環として」でした。

男女ともに「結婚して一人前」とみなされるのが当たり前の時代に、画家を志す=「結婚を後回しにする」という決断でもありました。

特に女性が画家になるのは稀。実際に、女性が国立の美術大学へ入学できるようになったのは1897年。ベルトが亡くなった後のことだったのです。

そんな彼女が描いた《ゆりかご》には、母と子の姿が描かれています。当時のフランスで、母子像といえば、以下のように神秘的で荘厳に、母と子をはっきりと描くのが当たり前でした。

アングル「聖母像」©︎Wikipedia
アングル「聖母像」©︎Wikipedia

しかしベルトの《ゆりかご》にある母子像はもっと身近で親しみやすい。この日常の一瞬を捉えた表現が印象派らしい革新性でした。

つまり、ベルトは女性としても画家としても、時代を無視して自分の意思を貫いたのです。

夢を共に追った姉妹の決断

ベルト・モリゾは三姉妹と弟一人の兄弟構成で育ちました。

全員が絵を学んでいましたが、ゆりかごに描かれている二番目の姉エドマとベルトの才能は際立っていました。

絵画教師が「この姉妹は才能がありすぎて、放っておくと画家を目指してしまう」と母親に告げたほどです。

お二人のお嬢様方の運命の唯一の支配者となる芸術を、将来決して呪わぬという確信をお持ちでしょうか?

黒衣の女ベルト・モリゾ ー 絵画教師が母親に向けた手紙より抜粋

実際、二人ともにサロンに入選するほどの実力を持っていました。上がベルト、下が姉エドマの作品です。

ベルト・モリゾ「ロリアンの小さな港の眺め」1869年
ベルト・モリゾ「ロリアンの小さな港の眺め」1869年 ©︎Wikipedia
エドマ・モリゾ「ベルト・モリゾの肖像画」 1865年
エドマ・モリゾ「ベルト・モリゾの肖像画」 1865年 当時モリゾは24歳

1868年、ベルトは展覧会でエドゥアール・マネと出会います。

マネはモリゾ家と親しくなり、姉のエドマに海軍将校の男性を紹介しました。そして翌年の1869年、30歳のエドマは結婚を選び、画家の道を諦めます。

「窓辺にいる画家の姉」1869年©︎Wikipedia
「窓辺にいる画家の姉」1869年©︎Wikipedia

結婚後、地元を離れたエドマはベルトに手紙を送っており、「夫は優しくてカッコいい。恵まれた結婚をしたのに、心が満たされない。アトリエの日々を思い出して悲しい」といった内容を記していました。

ベルトは手紙の返信で、エドマが手にした”愛情”と自分が追う”夢”を同等と考え、変に慰めるわけでもなく理解し、寄り添う知的な女性でした。

お姉さまは最悪のくじを引いたわけではありません。お姉さまには真剣な愛情、お姉さまに捧げられた献身的な心があるのですから。運命に対して恩知らずであってはなりませんわ。

孤独はとても悲しことだと考えてくださいな。女性は愛情を途方もなく必要としています。

黒衣の女ベルト・モリゾ ー P,115

ベルト自身も寂しさや孤独を抱えていたことがにじみ出ています。それでも彼女は、お互いの選択を「間違い」としないように、それぞれの選択を大切に守ろうとしているように思えます。

こうした背景を踏まえて《ゆりかご》に描かれたエドマの表情を見ると、どう感じるでしょうか。

優しい眼差しとも取れますし、心ここに在らずのようにも見えます。

エドマが本当にこのような表情をしていたかはわかりません。もしかして、ベルトは自身の寂しさを投影させていたのかもしれません。

つまり、この作品は、夢を分かち合いながら共に描き続けた姉妹が、それぞれの人生の選択をした瞬間の象徴ともいえるでしょう。

【おまけ】筆跡から感じる愛情

姉エドマは頬杖をつき、生まれたばかりブランシュを見つめています。もう一方の手は、シーツの端を指先でつまみ、ヴェールでブランシュを守っているよう。

絵に潜む光は、ゆりかごを覆うヴェールを透かして差し込み、その下で眠るブランシュの姿をやわらかく浮かび上がらせています。

このヴェールは、厚塗りや重ね塗りはせず、絵の具を薄めることで明度をつくり出し、白から白を削ぎ落とすように描かれています。キャンバスの上を行き来する際に、他の色を拾うことにより我々に神秘的な印象を与えます。

まるで大好きな姉の娘を撫でるように、何かから守るように、丁寧に描かれているのです。

周りを惹きつける強烈な”個性”を持つ「ベルト・モリゾ」

ベルト・モリゾのプロフィール

ベルト・モリゾ (1841〜1895) は、印象派を支えた女性画家のひとりです。

Berthe Morisot (1841-1895)
Berthe Morisot (1841-1895) ©︎Wikipedia

県知事の父と陽気で優しい母のもと、穏やかな二人の姉と一人の弟がいるブルジョワ家庭に生まれました。三姉妹は容姿端麗。穏やかな姉たちとは違い、ベルトは内向的・繊細・神経質

時には生意気と言われるほど強い意志を持った彼女は、容姿の美しさと内面の個性から強い魅力を放っていたといわれます。

家柄を重んじる時代にあっても、母の教育方針は「子どもが幸せに、自分の才能を開花させること」。モリゾ家の子どもたちはピアノや裁縫、絵画を学び、ベルトは特に絵画で才能を発揮しました。

「モリゾ夫人と娘の肖像」(姉エドマと母親)©︎Wikipedia
「モリゾ夫人と娘の肖像」(姉エドマと母親)©︎Wikipedia

ベルトの母はロココ時代の画家ジャン=オノレ・フラゴナールの姪の孫にあたり、遠縁に芸術家を持っていました。芸術への理解や関心は家庭に自然と息づいていたのかもしれません。

展示会で出会ったエドゥアール・マネは、ベルトの画家としての才能と彼女の美しさを評価しました。そして、絵のモデルにスカウトします。マネは、1868〜74年の間に、油彩だけで11点もベルトの肖像を描きました

エドゥアール・マネが描いたベルト・モリゾ
エドゥアール・マネが描いたベルト・モリゾ ©︎Wikipedia

ベルトは、マネのモデルを務めながらさらに絵に没頭していくことになります。その中で印象派の仲間たちと出会い、全8回の印象派展のうち7回に参加しました。年月が経つにつれ、印象派要素を強めていく彼女の作品はなかなか評価を得られませんでした。

1874年(第一回印象派展開催と同年)、ベルトは家族に説得され、エドゥアール・マネの弟、ウジェーヌと結婚します。画家であり続けたいベルトは結婚に対して乗り気でなかったのです。

エドガー・ドガ『ウジェーヌ・マネ』1874年
エドガー・ドガ『ウジェーヌ・マネ』1874年©︎Wikipedia

それでも夫・ウェジーヌはは画家としてのベルトを尊敬し、マネージャー的な役割を担い、彼女を支え続けました。二人は絵を通じて絆を深めていきます。そして、1878年には愛娘ジュリーが誕生したことで家族の絆はさらに深まります。

「庭で娘といるウジェーヌ・マネ」1883年
「庭で娘といるウジェーヌ・マネ」1883年 ©︎Wikipedia

1892年、彼女が画家として認められ始めた年に、ベルトの良きパートナーで、ジュリーの思いやりに溢れた父親であるウジェーヌが死去します。

そのわずか3年後にジュリーがかかったインフルエンザが移り、悪化して肺炎で亡くなりました。

ベルトの最後の言葉は、「ジュリー」でした。

可愛いジュリー、死んでいきながらもあなたを愛しているし、死んでもなお愛していますよ。お願いだから泣かないで。

ベルト・モリゾが死の前日にジュリーに残した手紙より抜粋

ベルト・モリゾは印象派の天使

ベルトは昔からの友達を大切にしつつも、印象派の中心人物であるルノワール・モネ・ドガと深い友情を築いていました。

プレイボーイのルノワールは彼女を画家として尊敬し、良き友人となります。壮絶な人生を歩んでいたモネは、自分を理解し師と仰いでくれるベルトを妹のように愛しました。気難しいドガは厳格でしたが、ベルトにとっては父のような存在で、彼に褒められることが大きな喜びでした。

印象派は、ブルジョワ出身と庶民出身のあいだで対立が絶えませんでした。その場を仲裁していたのが、ベルトとピサロです。

印象派_ブルジョワVS庶民の図解
印象派_ブルジョワVS庶民の図解

ベルトの神経質で内向的な性格は、厄介な仲間たちの本質を見抜くことに繋がり、信頼関係を築くことにつながったのかもしれません。

3人は、彼女の娘・ジュリーも宝物のように大切にしていました。

ルノワール「ジュリーと母親」©︎Wikipedia
ルノワール「ジュリーと母親」1894年©︎Wikipedia

ベルトの訃報に接すると筆を置き、すぐに駆けつけたといいます。

1896年、ベルトの一周忌には、友人たちとジュリーが回顧展を企画しました。

モネとドガが揃うと基本喧嘩が始まります。大体ルノワールもモネ側につくのですが、今回は疲労困憊で一言も発さなかったそう。他の友人が仲裁に入ろうとしましたが、無理でした。喧嘩の翌日、拗ねたドガは家から一歩も出なかったみたいです。この様子は、面白がって見ていたジュリーが日記で記録を残しておいてくれました。

印象派の強烈なおじさん3人は、ジュリーを大切にし続けました。頑固一徹のドガでさえも、ジュリーに会うと額に口づけるほど。なんと、ジュリーの旦那になる人物はドガの唯一の弟子なのです。

後に、ジュリーも画家にもなり夫婦で画家として切磋琢磨することになります。まるで母ベルトと父ウジェーヌのようですね。

エネスト・ルノアール「ジュリー・マネの肖像」1905年 ※ジュリーの夫が描いた作品
エネスト・ルノアール「ジュリー・マネの肖像」1905年(※ジュリーの夫が描いた作品) ©︎Wikipedia

ベルト・モリゾの《ゆりかご》はどこで見れる?

《ゆりかご》はパリのオルセー美術館に所蔵されており、現在は印象派ギャラリー内に展示されています。

現在は印象派ギャラリーに展示されています。ただし必ず見られるとは限らないため、、公式ホームページの作品一覧で確認することをお勧めします。

オルセー美術館
オルセー美術館

なお、2025年10月から上野で開催予定の「オルセー美術館所蔵 印象派―室内をめぐる物語」には、《ゆりかご》は展示予定はありません。

オルセー美術館の作品リストを見ると、すでにオルセーでの展示対象から外れているため、今回の来日はないのかもしれません。

ちなみに、エドゥアール・マネが描いた《すみれの花束をつけたベルト・モリゾ》もオルセー美術館の所蔵ですが、こちらも来日対象外のようです。

エドゥアール・マネ「すみれの花束をつけたベルト・モリゾ」©︎Wikipedia
エドゥアール・マネ「すみれの花束をつけたベルト・モリゾ」©︎Wikipedia

【最後に】ゆりかごの成分は高純度の愛情と少しの寂しさ?

この絵が、もし100%幸せな絵だったならこんなに心に残るのでしょうか。

ベルト・モリゾは、夢を諦めずに自分を貫く強さを持ちながら、相手の立場を理解し、思慮深く寄り添う優しさを持っていました。だからこそ、神経質であったのだと思います。

彼女の《ゆりかご》から1番に伝わるのはモデルへの愛情と静かな幸福。でも、不思議と後ろ髪を引かれるのは、隠しきれない寂しさや脆さがあるからかもしれません。

だからこそ、150年経ったいまでも名画として存在し続けているのでしょう。

ベルトには名作がたくさんあります。やはりどんなに幸福な絵にも、隠しきれない不安が数滴混ざっています。それは、彼女の人間性だけでなく、女性としても複雑すぎる経験と気持ちを抱えて生きたからなのかもしれません。

愛の手紙は、焼却してしまった方がいいのです。

ベルト・モリゾ

このお話は今度またできればと思います。

参考文献
「大人のための印象派講座」- 三浦篤

「黒衣の女 ベルト・モリゾ」- ドミニク・ボナ
「名画で学ぶ世界史」- 竹内麻里子

YuRuLi
サイトの管理人
TOKYO | WEB DIRECTOR
Youtube登録者19万人。
本業以外に、日常に溶け込むプレイリスト動画の作成や音楽キュレーションの仕事も。音楽、ガジェット、家具、小説、アートなど、好きなものを気ままに綴っていきます。自分の目や耳で体験した心揺れるものを紹介。

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次