【天然か天才か?】素朴派の代表アンリ・ルソーという奇妙な画家の生涯

アンリ・ルソーを一言で表すなら、人並外れた「自尊心と虚栄心が作り上げた怪物画家」でしょうか。

彼が絵を描き始めたのは40歳の頃。その歳で始めたら、ほとんどの人は「絵を見せてくれ」と言われても「いやぁ、趣味で始めたもんで…」なんて恥ずかしがってキャンバスを見せもしません。

ところが、ルソーは違います。彼は絵を本格的に始めたその年に、芸術大臣へ向けた手紙で「私は私の作品に欠点がないことを知っています」としたためています。

当時、彼の作品は多くの人から笑われ「素人画家」と批判の的でしたが、あのピカソはルソーを当初から褒め称え、作品も生涯手放しませんでした。

誰にも真似できない独自のタッチで世界を描いたルソー。その奇妙で魅力的な作品と生涯を、これから紐解いていきましょう。

筆者:YuRuLi

フランスで観たルソーの絵が摩訶不思議すぎて、作品や文献を読み漁るが余計に理解できなくなった。”分析”ではなく”想像”すべき画家なのだと自分を納得させた。

目次

【1分で解説】アンリ・ルソーってどんな人?

アンリ・ルソーの写真 ©Wikipedia

アンリ・ルソー(1840〜1910年)はフランスを代表する素朴派の画家。本格的に絵を始めたのは40歳の頃で、それまでは税関の門番として働きながら、いわゆる「日曜画家」として独学で絵を描いていました。

素朴派とは

正式な美術教育を受けず、独学で描かれた芸術作品をナイーヴ・アート(素朴派)と指す。

同世代の画家は有名な印象派のモネやルノワール。画家としてのキャリアで言えば、ポスト印象派となるゴッホやスーラが同期にあたります。

絵の師を持たず、誰からも教わらない彼の絵は、奇抜すぎて新聞でも常に笑いのネタになっていましたが、本人はむしろ自分を称賛する声として動じず、一途に絵を描くことへ生涯をそそぎました。

ルソーは晩年までほぼ評価されることはありませんでしたが、死後徐々にモダニズム作品の脚光が浴びていく過程で再評価され、後に「素朴派」の代表的画家となります。

しかし、ルソー本人はそれほど世間に認められる前に足の壊疽(えそ)が原因で、66歳の時にこの世を去ります。ルソーほど評価が揺れ動いた画家はいませんが、死の間際に描いた『夢』はNYの「MoMA」でもトップクラスの人気を誇る大傑作となりました。

アンリ・ルソー「夢」 ©Wikipedia

独学であるにもかかわらず、一体どこが評価されたのか、なぜルソーは世間の声に凹むどころか躍進していったのか、彼の人生や手紙から謎に迫っていきます。

作品と振り返るアンリ・ルソーの生涯

貧乏な幼少期〜画家の第一歩へ

アンリ・ルソーは1844年にフランス西北部ラヴァル市に生まれ、母は軍人家系で父はブリキ職人。ルソーが7歳の頃に、父の商売が行き詰まり非常に貧しい環境で育ちます。

その貧しさから19歳の頃に盗みを働き1ヶ月の禁固刑となりますが、少年院に行くのが嫌すぎたルソーは志願兵として7年間の兵役を務めます。

その後、父が亡くなり母の面倒を見るため、パリに移り住んでからは「税関史」として、いわゆる公務員の仕事を40歳まで続けます。「税関史」と言っても帳簿をつけるなどではなく、実態は”門番”で、24時間の交代制という過酷な労働を20年以上続けました。

アンリ・ルソー「入市税関」 ©Wikipedia

そんなルソーの趣味は音楽や絵を描くこと。

幼少期から勉強の成績はすこぶる悪いものの芸術分野だけは優秀でした。仕事の合間を縫って絵を楽しんでいた日曜画家のルソーですが、41歳の時、初めて自分の絵を政府主催の「サロン・ド・パリ」に応募します。

そこで落選したルソーですが、新印象派であるジョルジュ・スーラやポール・シニャックが企画した誰でも自分の絵を出展できる「アンデパンダン展」へ参加することに。ルソーが出展したのは幻想的な夜の風景画『カーニバルの夜』でした。

アンリ・ルソー「夜のカーニバル」 ©Wikipedia

私はこの静寂さに包まれた作品が好きなのですが、平面的なその構図はどこか絵本のようでもあります。

この当時評価されていたのはこんな古典的作風。

ジョン・エヴァレット・ミレー「オーフィリア」 ©Wikipedia

そう、どうしたってこの時代の常識に当てはまらずヤジが飛んでくるのも頷けます。そしてルソーの作品の前で起こっていたのはヤジどころか爆笑の渦でした。

私はいまでもルソーの絵がひきおこした笑いの波をまだ耳の中に憶えている。—-(中略)—いたずら好きやおどけものたちがルソーの作品をどうやら見つけるたびに、笑いの爆発と嵐のために、バラック小屋はふきとびそうだった。(1887年、第三回アンデパンダン展会場で)

しかし、ここですごいのがアンリ・ルソーという男です。彼は自分の絵が飾られるのが嬉しくて、ずっとその場にいたため、多くの人が笑い泣きしているのを目にしていましたが、以下のように残しています。

その絵の前で涙を流して笑わぬ者は一人もいなかった。幸せなルソーよ。 アンリ・ルソー

メンタル強すぎるルソー….!これは皮肉ではなく、他の手紙や記述でも見られますが、とにかく自分の願望が非常に強いため、”いい方向”に全部解釈するのがルソーマインドです。

ルソーの絵は「平凡ではない」ことだけは確かでした。しかしピサロやルドンなど一部有名な画家たちが「単なる学校での技術に、感性が取って代わった」と密かにルソーを評してもいました。

不幸を乗り換え独自の進化を遂げる

その後も毎年、アンデパンダン展へ出展するルソーは益々絵にのめり込みますが、44歳の時に最愛の妻・クレマンスを結核で亡くしてしまいます。

さらにこの結核が子どもたちにも移ってしまい9人もいた我が子は最終的に1人しか生き残りません…

そんなルソーですが、絵への情熱を失わず、ついには「風景肖像画」を作り出します。

アンリ・ルソー「私自身、肖像=風景」 ©Wikipedia

もう、背景の大きさとか関係ありません。「遠近法?なにそれ?」って感じです。

ありえない縮尺ですが、ルソーは自分をパリの中心に配置し、この当時できたばかりのエッフェル塔よりも高く描きました。まさに近代絵画の始まり。

”黒を使わない”印象派の掟を軽々と破り、大胆な黒のスーツを着たルソーの存在感がすごい。ちなみにパレットに書かれた文字は最初の妻・クレマンスと次の妻であるジョゼフィーヌの名前です。

当時の新聞では皮肉として「ルソー氏はこの風景肖像画なるもので特許を出願した方がいい(wwww)」と書かれ、ルソーは真意に気づかず、後に「私は風景肖像画の創始者であります!」と自慢気に手紙で書いています。もはや可愛いですね。

ついに脱サラ! さらに世間を驚かせる

49歳となったルソーは22年間勤めたパリ市税関を早期退職。退職金1019フラン(約300万円)を受け取り、芸術家として生きていこうと決心します。ちなみにこの10年間で絵はまったく売れていません。

脱サラ後のルソーは画業に専念し、翌年あの問題作『戦争』をアンデパンダン展に出展し、世間を驚かせます。

アンリ・ルソー「戦争」 ©Wikipedia

ルソーは兵役に出ていましたが前線で活動したことはありません。彼はしばしば新聞や歴史、文学などからイメージを膨らませていました。この作品も「屍を飛び越えていく馬」という構図自体は新聞の挿絵から借りています。

戦争の女神を象徴した幼い子供の白と馬の黒の対比、その下に転がる生々しい人間の肌色がやたらと目に焼き付きます。この絵を見たゴーギャンは「この黒はとても真似できない」とつぶやいていたようです。

もし王様が戦争を始めようとしたなら、母親が出掛けて行って断じて止めなければいけません。アンリ・ルソー

博愛主義であったルソーは平和を愛していて、戦争に対する恐れと憎しみを強く抱いていたことを友人に語っていました。

ちなみにこの戦争をきっかけにルソーを高く評価する人も出てきています。「どうしてこの作品の奇妙さが嘲笑を生むのでしょうか。彼は彼にしかなものを持ち、絶対的に個性的であると言われるのにふさわしい人です。」などルソーのオリジナリティが認められている様子があります。

さらに54歳の時には、NYのMoMAでも高い人気を誇る『眠れるジプシー女』を描いています。

アンリ・ルソー「眠れるジプシー女」 ©Wikipedia

詩もたしなんでいたルソー。故郷のラヴァル市にこの絵の買取を頼んでいて、その時に書いた作品の解説文章が素敵です。

さまようひとりの黒人女性、マンドリンを弾きながら、傍に壺を持ち、疲れ果ててぐっする眠っている。一匹のライオンがたまたま通りかかり、彼女の匂いを嗅ぐが、むさぼり食おうとしない。それはとても詩的な月明かりの効果だ。 アンリ・ルソー

ジャングルの絵でついに売れ始める!

50代になっても絵が売れることはありませんでしが、55歳の時に未亡人ジョゼフィーヌと再婚。年金だけでは生活費が補えないルソーは絵画と音楽を教え始めます。慎ましくも幸せでしたが、なんと4年後にジョゼフィーヌが死去。

一人になってしまったルソーはいよいよ全ての時間を絵画にかけ覚醒していきます。1905年の『飢えたライオン』が「サロン・ドートンヌ」に出展され話題を呼びます。

アンリ・ルソー「飢えたライオン」 ©Wikipedia

ここからルソーはジャングルにまつわる作品を多く出していきます。ちなみに本人は兵士だった時に「メキシコのジャングルに行って見てきた!」と言っていますが、そんな記録は一切なく、実際はパリ植物園や新聞の写真などを模写していました。

どこまで本気で言っていたかは不明ですが、ルソーは他にも同姓同名の人が絵のコンクールで銀賞を取ったことを自分が取ったことにしたり、かなり虚言癖があります。基本自分に都合が良いようにしちゃうオジさんです。

ただその”思い込みの力”こそ、ルソー最大の強み。本人は自分のことを「写実主義」と言っていましたが、ルソーにしか見えない現実が幻想的な作品を作り上げていきます。友人の画家・ドローネーの母からインド旅行の話を聞き、描き上げたのが『蛇使いの女』です。

アンリ・ルソー「蛇使いの女」 ©Wikipedia

それまでの動植物の模写経験とイメージの累積でこんな絵が描けるルソーはやっぱりすごいです。

60代になったルソーには肖像画の依頼が立て続けに入り、さらには印象派を支えた画商ヴォラールやブリュメルによって定期的に作品の購入がされるようになりました。(やったねルソー!)

ピカソら前衛画家にも認められた晩年

そして晩年に、”あの伝説の夜会”が開かれます。

62歳の時、当時のパリのアバンギャルドな画家全てと知り合いだったのではないか?と言われる有名人で詩人のギョーム・アポリネールと交友が始まります。これがきっかけで、アポリネールの友人である希代の天才パブロ・ピカソと知り合います

1908年の11月、ピカソのアトリエ「洗濯船」で「ルソーを称える会」が開かれます。ここにはピカソの他にもキュピズムの先駆者ジョルジュ・ブラックやココシャネルの自画像で有名なローランサンなど名だたる前衛画家たちが集っていたそうです。(行ってみたかった!)

ちなみにこの時の夜会の様子を原田マハさんが小説「楽園のガンヴァス」で書いているので、ルソーが面白いと感じた人はおすすめです。

夜会参加者の半分は老人画家ルソーを笑い物にしていたようですが、ピカソはルソーを本気でリスペクトしていたと思います。ルソーの「女の肖像」をたまたま画材屋で見つけ購入したピカソは、生涯その作品を手放しませんでした。

アンリ・ルソー「女の肖像」 ©Wikipedia

またピカソが尊敬していたセザンヌもルソー同様に”天然”の画家でした。おそらく天才であるからこそ、ルソーのような狙って描けない作風や批評関係なしに突き進む姿に尊敬の念があったのかもしれません。

順調な画家人生が始まろうとしていましたが、その2年後、足にばい菌が入ったまま放っておいてしまったルソーはあっけなくこの世を去ります。享年66歳でした。

【まだまだ】ルソーの面白作品について語りたい

その人間性はもちろん、彼の作品は面白いものが他にもたくさんあります! せっかくなので興味がある方はもう少し覗いていってください。

フットボールをする人々

アンリ・ルソー「フットボールをする人々」 ©Wikipedia

私が一番好きなルソーの絵です。

サルみたいな小型の人間がルソーらしき人間の腹部をパンチしているのが最高です。

本当に「遠近法ワカラナイ」という人なんですが、色調センスは半端ないです。さらには葉の一つ一つまで信じられない忍耐力で描き上げています。デフォルメ化された人たちとその細かな背景が相反して絶妙にルソー節が出ています。

ちなみにラグビーはこの当時フランスでほぼ馴染みのないスポーツでした。エッフェル塔もですが、ルソーは最新の情報を積極的に取り入れる、まさに近代絵画の視点を持った人だったんだと思います。

詩人に霊感をあたえるミューズ

アンリ・ルソー「詩人に霊感をあたえるミューズ」 ©Wikipedia

これは友人の詩人アポリネールとその彼女である画家ローランサンを描いた肖像画。有名な話ですが、実はこの絵は2枚あります。

詩人の花と言われるカーネーションを描くつもりがあやまって別の花を描いてしまったため、ルソーが自ら「やり直させてくれ!と頼み、再度描きました。ローランサンはかなり太めに描かれたので気を悪くしたそうですが、ルソーは「女神とはこんなもんだ」とすましていたとのこと。

ちなみに制作時にアポリネールの顔の寸法を丁寧に図ったようですが、あまり似ていませんでした。それでも「ちっとも似ていない」という評判に対して、友人であるアポリネールは、「ではどうしてこの絵が私だと分かったのか?」と庇っています。熱い男アポリネール。

ジュニエ爺さんの馬車

アンリ・ルソー「ジェニエ爺さんの馬車」 ©Wikipedia

最後はルソーのアトリエ近くで食料雑貨を営んでいたジェニエ爺さんに送った絵。ルソーはジェニエ爺さんと仲が良かったのですが支払いのツケがだいぶ溜まっていたため、ジェニエ爺さん自慢の馬車を描いて、ツケの代わりに送ったようです。

しかし、やたらとでかい馬車下の犬と、逆に小さすぎる馬の横にいる犬。さらによく見ると馬車にも犬みたいのがいます。そして帽子を被った人物はまさかのルソー本人。もうツッコミどころがありすぎて、ルソー本人に解説してほしいです笑。

この絵も含め、いくつかルソー作品をパリで観てきたので、よければ以下記事をご覧ください。

アンリ・ルソーの作品はどこで見れる?

アンリ・ルソーは今や世界中が欲しがる画家となっていますが、実は日本でも人気で、箱根のポーラ美術館は8点と世界的にも所蔵作品が多いです。所蔵作品の詳細はこちら

とりわけ有名な作品はフランス・パリにあるオルセー美術館とアメリカ・NYにあるMoMAに所蔵されています。

「オルセー美術館」所蔵の有名作品
・蛇使いの女
・戦争
・女性の肖像(ピカソ所有作品とは異なる)

「MoMA」所蔵の有名作品
・夢
・眠れるジプシー女

【最後に】愛すべき”天然”さで世間の批判すら包み込んだ

今回の参考資料とモチベのための「楽園のカンヴァス」

どこか牧羊的で、無邪気な絵心は唯一無二であり、いまだに似たような画家すら出てきません。それは彼が絵を習ったことのない人間だからこそ出てくる、彼独自の人生観とも言えます。SNSで情報過多になっている今の時代では生まれない画家と言えるでしょう。

そんな人と見方が異なるルソーが、それでも自分流を貫けたのは、巨大な自尊心と虚栄心があったからではないかと思います。彼には世間の批判など柳に風。むしろ思わず微笑んでしまう彼の絵に、批判の風すら包まれてしまいました。

この”掴みどころのなさ”こそ、アンリ・ルソーという人間なのではないでしょうか。これからも理解しきれない面白い存在として、彼の作品は世界を楽しませてくれるはずです。

参考文献
「アンリ・ルソー 証言と資料」- 山崎 貴夫
「ルソー」- コルネリア・スタべノフ

「アンリ・ルソー 楽園の夢」- 藤田尊潮
「ルソーの夢 イメージの森のなかへ」- 利倉

YuRuLi
サイトの管理人
TOKYO | WEB DIRECTOR
Youtube登録者19万人。
本業以外に、日常に溶け込むプレイリスト動画の作成や音楽キュレーションの仕事も。音楽、ガジェット、家具、小説、アートなど、好きなものを気ままに綴っていきます。自分の目や耳で体験した心揺れるものを紹介。

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