君の真の義務は自分の夢を守ることだ。
アメデオ・モディリアーニ
最高落札額は210億円と、今ではピカソと並ぶ高額取引がされる画家「アメデオ・モディリアーニ」。実は生前はほぼ評価されず、また破天荒な私生活や若くして亡くなった点などゴッホとよく比較されます。
一度見ると記憶に焼き付く印象的な絵。特徴的な首が長く、瞳のない絵は何を物語っているのか。
今回は、酒と薬に溺れながらも、その独特のスタイルから人気を博したアメデオ・モディリアーニの生涯を作品と一緒に深ぼってみました。

【1分で解説】モディリアーニってどんな人?

アメデオ・モディリアーニ(1884年〜1920年)は、パリで活躍したイタリアの画家、彫刻家です。
ハンサムな容姿と合わせて、短くドラマチックな彼の生涯は「モンパルナスの灯」という有名な映画にもなっているほど。ちなみに主演は当時フランス1のイケメン俳優が起用されましたが、モディリアーニを知る友人たちは「モディリアーニの方がいい男だ」と口々に語っていたそうです。実際「超」がつくほどモテていたらしいです。

ただ、酒癖も悪く酒屋で全裸になったり、酔うと女性に手を出したりと素行は悪く、まるでドラマに出てくる「売れない自称・画家」のような人物。生前は酒代を稼ぐために酒屋で似顔絵を描いて、数フラン(1フラン=1,000円ほど)で売りつけるほどでした。
しかし、彼は死後、評価が高まりピカソと並ぶほどの高額取引をされる作品を生み出した「売れた画家」。
同世代にはピカソをはじめ、ディエゴ・リベラといった20世紀を代表とする芸術家がいて、実際にパリ「モンマルトルの丘」では交流もありました。

元から病弱であった彼は、酒や薬物に溺れ、35歳で亡くなってしまいます。虚無感の克服をテーマにした西洋哲学の天才「ニーチェ」に傾倒していたことが有名で、逆に心に強い虚無を宿していたのかもしれません。
短い人生ですが、アフリカ彫刻から着想を得た彼の独自スタイルは徐々に人気が高まり、100年以上経った今でもオリジナリティ溢れる作品性は高い評価を受けています。
写真-1024x682.jpg)
モディリアーニの生涯を作品と共にわかりやすく解説
生まれながらに家族を救った幼少期

本名アメデオ・クレメンテ・モディリアーニはイタリアのトスカーナ地方のリヴォルノという町に、ユダヤ系イタリア人の末っ子として誕生します。
父は実業家で、裕福な家庭でしたが、まさかのモディリアーニが誕生した日に事業が破産。ただこの窮地を生まれたてのモディリアーニが救いました。
当時のユダヤ法では、生まれたばかりの子供を持つ母親や妊婦がいる家庭からは財産を没収しないという決まりがあったため、財産を母名義にすることで没収されずに済んだのでした。
すでに尖りはじめていた学生時代
早くから絵の才能を見出されたモディリアーニは、1898年、14歳の時に、リヴォルノで有名な風景画家グリエルモ・ミケーリからでデッサン指導を受け始めます。

作品は、肖像画とヌードしか描かないモディリアーニも、この時は風景画も含めイタリアの古典美術を学んでいます。ただすでに尖りの頭角を出していたモディリアーニ。風景画よりも裸婦像に興味津々で、戸外製作が嫌いな彼は、制作をしないで家政婦をナンパしたりしていました。
モディリアーニは後に「景色の中に表現すべきものは何もない」と語っているほどで、すでに出来上がっていて、もう姿を変えないものを嫌っていたと友人らが証言しています。
1900年、生涯悩まされることとなる結核に冒され、翌年転地療養のために、母とナポリやローマ、フィレンツェ、ヴェネチアを旅行します。
そこで訪れた教会などで、14世紀のイタリア彫刻に強い感銘を受けます。病状に伏せている時も制作を続けるなど、芸術への熱は高まっていきました。
ただ、1902年、モディリアーニは18歳の時に大麻を経験し、美術学校よりもアングラなお店の常連に。大麻を吸い、カフェでニーチェの本を読み漁り、娼婦たちをデッサンする生活が続きます。1906年に、母からの援助があり、念願のパリで多くの芸術家たちと出会い、才能が開花していきます。
モンマルトルで芸術仲間たちと出会う

ピカソをはじめとする多くの芸術家・俳優・画商を輩出した伝説のアトリエ兼住宅「洗濯船」。その近くのアパートに住んでいたモディリアーニは、ピカソたちとの交流を始めます。
この頃、ピカソはまだあまり売れておらず「青の時代」の画風でしたが、周りの芸術家仲間からは評価されており、実際モディリアーニも青を基調としたピカソの絵に影響を受けていたことがあります。

天才ピカソの波乱の生涯については以下の記事で詳しく解説しています。

そのほかにも、影響を受けた人がいます。モディリアーニがパリに来た年に亡くなってしまった偉大な先輩画家ポール・セザンヌです。とりわけセザンヌを尊敬していたモディリアーニ、画風にも色味や線のタッチなどかなり似ている時期がありました。

まだ異様に顔が伸びたりしていません。このように、モディリアーニは多くの作品や芸術家との交流から自身の絵を模索し始めます。
この時代は、マティスの「フォービズム」、ピカソの「キュビズム」など、多くの現代芸術の表現が生まれています。印象派が切り開いた絵画表現の自由度は、世間的にも広がり、モディリアーニ自身もその流れを作った1人でした。
ただ、そこに行き着くまで、モディリアーニは相当に苦しみます。以下の作品は、絵を見ているだけで、作者であるモディリアーニのもがきや苦しみが伝わってくるようです。

また子供の頃からアルコール依存症と言われる”大酒飲み”モーリス・ユトリロと知り合い、日夜酒に酔い潰れ、さらには薬物中毒になっていきました。

こちらはモチーフも斬新で、非常に味のある色彩や筆触ですが、当時は展覧会に出品しても、評価されず値下げしてなんとか作品を購入してもらうという状況でした。
モンパルナスで新たな境地を開拓
1909年、パリ・モンマルトルは観光化が進み、家賃が高くなったことからモディリアーニを含め多くの芸術家が家賃の安いモンパルナスへ移りました。
そこでも「洗濯船」の時と同様に、新たな出会いに恵まれます。中には、日本人画家として有名になる藤田嗣治もいました。藤田は後に映画「モンパルナスの灯」でモディリアーニの仕草や癖など演出に協力しているくらいです。

特にルーマニア出身の彫刻家、コンスタンティン・ブランクーシとの出会いは大きいもので、モディリアーニは1年間彼に弟子入りします。そこから5年間ほど昔から好きだった彫刻にのめり込むモディリアーニ。
その際に、アフリカ、オセアニア、アジアなどの民族芸術に触れ、以下のようなアフリカ彫刻風の作品を残します。

気づきましたか?
「めちゃめちゃモディリアーニの絵じゃん」ということに。
人によってはちょっと気味悪いなんて思うかもしれませんが、この絵、まさに後に有名になる顔や鼻が長くて、瞳のないモディリアーニの作風なんです。

モディリアーニ自身は彫刻を続けたかったのですが、資金不足に加えて、肺を患っていたため石の粉塵が毒となり、制作継続を諦め絵画に戻ります。
そこからは、基本的にこの首が長く、陶器のような顔の形、瞳のない絵のスタイルになりました。これは彫刻同様にフォルムを第一とした対象の捉え方。
”石から対象物を取り出す”作業工程と、フォルムの”昇華”を目指し、彫刻活動を通して「厳格さ、エレガンス、シンプルなフォルム」が作風に溶け込んでいきました。
ちなみに瞳は稀に描かれることがあり、その描き分けについて正確な理由は分かってはいません。(以下は上と同じ奥さんジャンヌの肖像)

しかし、映画でのモディリアーニ曰く、「魂を感じられた瞬間、僕は君の瞳を描く」と残しています。もしかしたら彼なりに、相手のことを理解できた時に描いていたのかもしれません。そんなところもロマンティック男です。
薬物とアルコールに溺れながらも代表作を残していく

元から結核を患い、体力がないにもかかわらず、大量のアルコールや薬物を摂取していたモディリアーニ。
荒廃した生活は徐々に身体を蝕んでいましたが、これまで以上に制作に精を出します。というのも、この時、同じく安宿に住んでいたレオナルド・ズボロフスキーという詩人が彼を評価し、お金がない中でも支援することを約束してくれました。(見た目からしていい人そう)

結果的に、モディリアーニは好きだったヌード作品を中心に描いていきます。これが後に172億円とモディリアーニ史上、特に高額になる作品でもあります。

この当時、1917年に美術学生で14歳年下のジャンヌ(19歳)と出会い、彼女と結婚し子供も生まれます。ちなみにジャンヌは藤田博嗣のモデルでした。

元からお金がないため、知り合いの肖像ばかり描いていたモディリアーニですが、ジャンヌを最高のモデルと讃え、彼はジャンヌの肖像を多く描きました。モディリアーニの代表作は主にジャンヌを描いた作品です。




©Wikipedia
ただ、プレイボーイでイケイケのモディリアーニは、ジャンヌと結婚する前年までいろんな女性と交際を持っており、婚外子も2人いたようです。
ジャンヌの親は結核持ちのユダヤ人で、売れていない画家であり、そういった評判もあるモディリアーニとの結婚に大反対。(そりゃあ反対するのが普通な気がする)しかしジャンヌは家を飛び出し、モディリアーニと結婚・同棲を始めたのでした。
そして悲劇の最期に…。
有名となる悲劇の最期を迎える
大量の飲酒と薬物依存の不摂生がたかり、モディリアーニは35歳の若さで亡くなります。死因は結核性髄膜炎。
さらに奥さんジャンヌはその2日後、後を追うように飛び降り自殺します。この時、妊娠8ヶ月の子どもを身籠っていました。この悲劇が皮肉にもモディリアーニをより有名にしています。
ちなみにジャンヌ自身、美大生で絵が得意でしたが、かなり不吉な絵を残していました。

絵のタイトルは「死」。ベッドに横たわり亡くなっているのはモディリアーニではなく、自分。
さらに、翌年モディリアーニが亡くなる年には未来を予見しているかのような作品。

妊婦が胸にナイフを刺し、亡くなっているというとんでもなく不吉で未来の予見のような絵….。モディリアーニの体調面的に死の匂いを感じていて、本人としてもモディリアーニがいない世界にはいたくないと思っていたのかもしれません。
ジャンヌさん激重愛なタイプです。
モディリアーニの娘「ジャンヌ」のその後
モディリアーニの一人娘も母と同名「ジャンヌ」という名でした。当時1歳だった彼女は母ジャンヌの姉に引き取られ、父がモディリアーニということは知らされずに育ちました。
後年は、美術研究者となりゴッホやエコールド・パリなどの研究を経て、40歳で父モディリアーニとも向き合っています。彼についての伝記本「伝説なしのモディリアーニ」を出版しており、その内容は父モディリアーニを理想化せず、客観性・批判性に富んだ内容です。
ウルトラマンを描いた成田亨が後継者?
モディリアーニの絵をじっくり見ていたら思い出したのが、ウルトラマンでした。

瞳のないアーモンド型の目、やたらと長い鼻、顔のフォルム、やっぱりウルトラマンだ。
調べてみたところ、どうやらウルトラマンをデザインした成田亨さんは、彫刻から対象の構造や組み立て方を作る方法を学び、そこから西洋画の世界に入っていったそうです。具象性を持ちながらフォルムを重視していくという、まさにモディリアーニ。
モディリアーニは、「後継者がいない画家」とも呼ばれていますが、いたんです。日本に。でも「シュワッチ」って言って、3分で怪獣倒すキャラクターです。
クズ男だけど本物の画家
いわゆる「アーティストって言えばこう」みたいな代名詞となったモディリアーニ。
酒癖は悪く、お金がない上に飲み歩いていた彼を、妊娠中の妻ジャンヌが探し回るのは日常茶飯事だったようです。最終的には薬物にも溺れ、悲しい最後を遂げます。
そんなストーリーがあるからこそ売れたとも言われていますし、事実そうだと思います。ただ彼は多くの芸術表現が生まれたあの時代、もがきにもがいて自分の絵を模索し、表現しました。
結果的に、真似できる人がいないモダニズム表現の1つを確立しています。ほとんどの画家はその境地に辿り着けません。ただのクズ男ではなく、真の画家として世に残ったのは、そんな画家としての本分だけは裏切らず、貫き通したからではないでしょうか。

