20世紀を代表する芸術家「パブロ・ピカソ」。存命中にルーブル美術館で作品が展示された唯一の画家で、後の現代美術へ与えた影響は計り知れません。
雑誌や新聞などを切り抜いて1つの作品にする「コラージュ」という技法も実はピカソが起源だったりします。そんな天才画家として名高い彼ですが、多数の愛人とスキャンダラスな関係があったりと破天荒な生涯を歩んでいます。
「青の時代」「薔薇色の時代」「キュビズム」など何度も変わる彼の画風には友人の死や愛人関係、戦争など様々なことが影響していて、調べるほど興味深くなる人物です。この記事では91歳まで大往生したピカソの人生を、有名なエピソードや作品解説を交え紹介します。
【3分で解説】ピカソってどんな人?

スペインの南部アンダルシア地方のマラガで生まれたパブロ・ルイス・ピカソ(1881年〜1973年)。印象派が世間に認められ、ゴッホなど後期印象派が活躍する頃に生まれています。絵画以外にも陶芸や彫刻など作品数は15万点とギネス記録になっています。
ちなみに公式フルネームは尋常じゃない長さで、これは先祖の名前を引き継ぎがちなスペインあるある。
「パブロ ディエーゴ ホセー フランシスコ・デ・パウラ ホワン・ネポムセーノ マリーア・デ・ロス・レメディオス クリスピアーノ デ・ラ・サンティシマ・トリニダード ルイス・ピカソ」(まるで呪文)
性格は気まぐれで飽き性。ただ興味の範囲は広く、絵画はもちろん、彫刻や陶芸、遺跡など多くのものに好奇心を注ぐ子供心を持った人物です。
「誰でも子供のときは芸術家であるが、問題は大人になっても芸術家でいられるかどうかである。」 パブロ・ピカソ
幼少期からあまりにも精巧な絵を描くため、周りからは神童扱い。当時、中学生だったピカソのデッサンを見て、画家だった父親が筆を折った話は有名です。
パリに来てから徐々に画風を進化させ、アフリカ彫刻や先輩の印象派画家ポール・セザンヌなどの影響も受け、後に有名となる「キュビズム」スタイルを確立。その存在間はアート界で絶大なものになります。

特に、スペイン内戦中にゲルニカであった大量虐殺にショックを受け描いたとされる『ゲルニカ』は、知らない人がいないほど有名な作品に。
ピカソの天才ぶりに意を唱える人はいませんが、妻がいながら複数の女性と付き合い、彼女たちとの子供がいたりと、彼の不貞ぶりには女性軽視と批判も生まれています。
愛人であったドラマールとマリーテレズの2人が、アトリエで大喧嘩をしあう様子を「ゲルニカのモチーフの1つにした」という噂まであります。
しかしそんな女性たちをいずれもミューズとして描くことで進化していった男がパブロ・ピカソ。何枚もの作品が100〜200億円以上と世界最高レベルの高額取引され、経済的にも世界で最も成功した画家です。
パブロ・ピカソの有名なエピソード
死産のピカソを葉巻の煙が救う
難産で生まれたピカソは、生まれた直後、息をしておらず死産だと思われました。そのため助産師は母親の介護を優先し、赤子のピカソをテーブルに置きっぱなしにしまいました。
その時、叔父のサルバドールが吸っていた葉巻の煙をピカソに吹きかけると、ピカソは息を吹き返したといいます。
ピカソはこの話を小さい時に叔父から何度も聞かされたようです。それにしても立ち会い室で葉巻吸ってる時代やばいです。
『モナリザ』の窃盗容疑で捕まる

世界で最も有名な絵画『モナリザ』。ピカソが29歳(1911年)の時、事件は起こります。『モナリザ』のスケッチをしようとした画家が額縁を固定する釘しかない状態を発見。そして容疑者の1人としてピカソが逮捕されます。
逮捕された理由は、友人である詩人「ギヨーム アポリネール」のアシスタントとの関係。ピカソは過去に犯人と疑われたこのアシスタントから盗難品と知らずに彫刻を購入していました
結果的に「怪しいやつを芋づる式にしょっぴけ!」という警察の動きでピカソは捕まることに。後日、無罪であることが判明し釈放されますが、この時ばかりはピカソも泣きながら無実を訴えていたそうです。シンプルにかわいそう…。
【ピカソの生涯】作品と共にわかりやすく解説
スペインで過ごした幼少期〜19歳まで
スペイン南部のマラガに生まれたパブロ・ピカソ。父は美術教師で、幼い頃から絵を描く環境が整い英才教育を受けていました。人並外れた絵心を持つピカソは神童として有名で、9歳で「ル・ピカドール」という絵を残しています。

すでに遠近法も意識されていますが、何より色合いセンスがすごいです。そしてメキメキと絵を上達させたピカソは15歳の時に圧倒的なセンスで「科学と慈愛」を創作し、マドリードで開かれた国立美術展で入選。

バルセロナのピカソ美術館に行った際、生で観ましたが、指先から服のしわまで繊細な描写力と光の陰影表現に圧倒されました。「これが15歳、中学生の絵か…」と。

この時点でスペインで名の知れた芸術家となったピカソはマドリードの国立アカデミーへ入学します。しかし、型通りなピカソはアカデミックな芸術的表現は好きになれず、1899年にはバルセロナへ戻ります。その時代に、友人との別れから有名な「青の時代」に突入します。
青の時代(1901年~1904年)

1900年〜1904年までの間、哀愁漂う青いトーンが特徴的な「青の時代」に入ります。きっかけは親しかった画家仲間カルロス・カサヘマスの死。
絵のモデルとして親しくなったジェルメーヌへ盲目なまでにで執着したカサヘマス。その想いが報われなかった結果、彼女に銃弾を放ち、自殺してしまいます。この状況に「何もできなかった」と19歳のピカソはひどく悲しみました。(ただこの後ジェルメーヌと愛人関係になります)
加えて、この時期は絵が売れず困窮していたピカソは、その鬱屈した心情を青のカラーでキャンバスに描いていきます。特に有名な作品の1つに『老いたギター弾き』があります。

老いた身体を湾曲させながらも、大きなギターを弾く盲目の男の姿が描かれています。このように盲人や売春婦、囚人など社会から疎外された存在をテーマにしていて、印象派のような華やかな絵が売れた時代にはそぐわず、ピカソの困窮生活はより逼迫します。
実は、『老いたギター弾き』を赤外線カメラで見たところ、後ろに別の絵があることが発見されました。

わかりづらいですが、中央に若い女性左下に跪く子供、右側に仔牛がいます。これはキャンバスを買うお金がなく、古い絵の上から描いたためです。それくらいこの時期は貧しかったピカソですが、ある女性との出会いから売れる画家になっていきます。
薔薇色の時代(1904~1906年)

1904年の春、パリに移り住んだピカソは後に伝説となるアトリエ兼住居である”洗濯船”で多くの芸術家たちと出逢います。この時期の芸術家仲間との出会いについてはコチラ
アトリエを洗濯船にかまえ、パリで出会った最初のミューズ、フェルナンド・オリビアと同棲を始めます。彼女は画家兼モデルであり、ピカソとの愛人関係は7年続きます。

彼女との同棲を始めた頃から、徐々に道化師などサーカスをモチーフにした絵になっていき、絵の色彩は赤やオレンジを取り入れて華やかな印象になっていきます。

これが「薔薇色の時代」であり、色彩は明るいものの多少残るメランコリックな表情や色のニュアンスが独特で、この頃からピカソの絵はパリで評価され始めていきます。ちなみにサーカスには、”社会適合できない変わり者の受け入れ先”という側面があったため、ピカソからすると青の時代と大きく題材が変わったわけではなかったのかもしれません。
アフリカ彫刻の時代(1906年~1908年)
パリでの評価は高まりつつも、すでに”盟友”であり”ライバル”でもあるアンリ・マティスがフォービズム(野獣派)を確立。アンリ・ルソーやアメデオ・モディリアーニなど多くの画家が自分流のスタイルを主張していた時代です。
ピカソも多くの芸術に触れ、若くして新しい潮流を生み出し始めます。パリのトロカデロ民族学博物館を訪れたピカソは、アフリカ部族の仮面に強く惹かれ作品にも取り入れます。

1907年、キュビズム時代に繋がる近代アートの原点「アヴィニョンの娘たち」をボロアパートメントとして有名な洗濯船で描きあげます。

バルセロナの歓楽街にある娼館を舞台に、印象派メンバーであるセザンヌの『大水浴』の構図を意識して描いたとされています。多くの人がイメージする「ピカソっぽい絵」になってきました。

作成途中で、アフリカ仮面に触発されたピカソは後から3人の顔を消して、仮面をつけました。さらにピカソはセザンヌの対象物を多角的な視点(高・低位置や横・斜めからの視点)で描く「多点透視法」を、平面に描くというアレンジを加えます。(以下で山田五郎さんがセザンヌの絵についてわかりやすく面白く語っっているので興味がある人はぜひ)
元祖ヘタうま画家として有名なアンリ・ルソーと同じように、上手くないけど自分なりの絵を描くセザンヌ。ピカソはそんな2人をリスペクトしていました。写実的な絵など天才的なピカソは、自分には描けない天然由来な画家を好む傾向にあったようです。
結果、『アヴィニョンの娘たち』を皮切りにキュビズムの時代が始まります。
キュビズムの時代 ( 1907年~1921年)
『アヴィニョンの娘たち』は発表当時、「アフリカ彫刻を冒涜している」「酔っぱらいが描いた絵」と酷評されますが、フォービズムのある画家が作品を見て衝撃を受けます。
それが後にピカソと共に美術史を急加速させたジョルジュ・ブラックです。

『アヴィニョンの娘たち』に衝撃を受けたブラックは、ピカソと共に「キュビズム」を共同プロジェクトとして始めます。創った作品を見せ合い、お互いが「これはキュビズム」だと認めた時、作品として完成にしていました。

対象を縦・横だけでなく裏側からも切り取り、分解し、それを平面に再構築していくこのスタイルはピカソの代名詞ともなりました。主に茶系や灰色など地味な色であった初期を「分析的キュビズムの時代」と言います。、1912年には、紙や新聞紙を用いてコラージュという技法を使い始めました。絵の色彩も鮮やかになったこの時代は「総合的キュビズムの時代」です。

構図はより平坦にシンプルなりました。1920年代初頭にはキュビズムも広く認知され認められたことで、ピカソはアート界に革命をおこした世界的な画家となりました。
ちなみにこの時期はフェルナンド・オリビアの友人であったエヴァ・グエルと付き合っていて、キュビズムで描かれた作品が有名。ただ「これが君だよ!」と渡されても困惑しそうなほどに理解が難しい絵です。

エヴァ・グエルは若くして癌を患い亡くなってしまいます。
新古典主義の時代(1918年〜1925年)
移り気で好奇心旺盛なピカソは、世界的画家になったにも関わらず、ここからさらに大きな方向転換をします。
この時代、第一次世界大戦の影響で、フランスでは「古典回帰運動」が盛んになります。それは機械の発達によって多くの人間の命が奪われた結果、前衛的なものではなく、古典など伝統的なスタイルを肯定していく動きです。
アートにも同様にその運動は訪れ、ピカソも一時的にこの運動に加わります。イタリア旅行中、目にしたルネサンス時代の彫刻や遺跡からインスパイアされ、「新古典主義」という、写実性を重視する古典的な作風となります。

ただの伝統的なスタイルというよりは、膨張した肉体、重厚感が特徴的で、あくまでピカソ流の古典主義なのが面白いです。この時代の作品をパリのオランジュリー美術館で観ましたが、存在感がすごいです。じっくり見ていると裸婦画に押しつぶされる感覚になります。

同じ頃、ピカソはロシア貴族の血をひくバレエダンサーのオルガ・コクラヴァを初めての妻として迎えます。新たなミューズとして何枚も肖像画を描きますが、オルガ・コクラヴァははっきりと言ったようです。
「まさかロシア貴族の生まれである私を、こんな目がどこにあるかもわからないふうに描かないわよね?」と。
ここですごいのがどのようなスタイルも描けるピカソ。

背景がほぼないキュビズム的な側面と新古典主義の写実性と重厚感がある作品です。これならオルガも許してくれたはず。ピカソ器用すぎます。
シュルレアリズム ~ ゲルニカ(1925年〜1937年)
当時、フランスで古典回帰とともに、起こっていた運動にシュルレアリスム運動がありました。
シュルレアリスムとは
精神分析学のフロイトの「夢」や「無意識」といった世界観から影響を受けた超現実主義のことを指す。人が無意識の中に抱いている世界観。
ぐねぐねと曲がった時計の絵で有名なサルバドール・ダリもこの運動に参加していた画家です。
キュビズム時代からすでにその片鱗があったピカソですが、ここでより抽象度の高い作風になります。

もう「ピカソの絵!」という感じです。ピカソはこのように芸術だけでなく多くのものからインスピレーションされていく生粋のアーティストです。それは人間関係でも大きく反映されます。
この頃は妻のオルガと子供もいますが、徐々に仲が悪くなっていきます。元からアバンギャルドなタイプのピカソはパーティーや晩餐会など堅苦しい行事に参加するのが面倒に。
結果的に夫婦関係が悪くなり、45歳のピカソは新たにマリー・テレーズという17歳のモデルと付き合い始め、子供も生まれます。それでも財産分与をしたくないピカソはオルガと別れず、描くオルガの肖像画はどんどん醜くなっていきます…。

一方でマリー・テレーズは「黄金のミューズ」として数多くの代表作になっているほどで、『鏡の前の少女』や『夢』のモデルです。

ちなみに、1937年、55歳にになったピカソは2人とは別に写真家で詩人、画家のドラ・マールとも関係を持っていました。『ゲルニカ』制作過程を写真に残していたのは彼女です。
ピカソからの酷い扱いを受けて度々泣いてしまうドラ。そんな姿を作品にした(ひどい)のが有名な『泣く女』です。

このように40代〜50代にかけて多くのものに刺激を受けつつ抽象度の高いTheピカソな絵が完成していきました。
女性関係においては非道な行動が多く、妻のオルガも精神的に病んでしまったり、愛人同士を喧嘩させるなど褒められる人間性ではありませんでした。
しかし、1937年にはスペイン・ゲルニカで起きた虐殺から反戦への象徴として『ゲルニカ』を作成。ピカソが現代アートの頂にたった瞬間とも言えます。
60代〜晩年のピカソ
その後1973年、91歳で亡くなるまでにも多くの作品を残しているピカソですが、第二次世界大戦後は主に戯曲や彫刻・陶芸に力を入れていました。

そして今度は63歳で、当時17歳だった画家志望のフランソワーズ・ジローと愛人関係に。子供も生まれますが、ピカソの横暴な態度から子供を連れ、彼のもとを去っていきます。
特に陶芸には強く興味を持ち、亡くなるまでも精力的に作品を作成していたピカソですが、79歳の時、南仏のアトリエで出会ったジャクリーヌ・ロックと2度目の結婚をします。なんとジャクリーヌの年齢は27歳。彼女はピカソが亡くなる時も一緒に添い遂げていてますが、ピカソが亡くなった後、最終的にピストル自殺をしてしまいます。
そんな良くも悪くも周りへ強い影響力を与え続けたピカソは亡くなる当日の朝3時まで絵を描き続け、生涯現役を貫きました。
ピカソの激しい愛人関係や女性蔑視の態度については、作品性含め再評価されいていますが、それでも彼自身の偉業が大きすぎるため、未だピカソの名前は世界的なものとなっています。
ピカソと交友関係があった有名画家たち
20世紀、パリを中心としてピカソは後に有名になる多くの芸術家と出会っています。
特に有名な人物としては、フォービズム(野獣派)創設者のアンリ・マティス、悲劇の人生をとげたイケメン画家のアメデオ・モディリアーニ、「色彩の魔術師」ことマルク・シャガールでしょう。
モディリアーニとピカソの関係
モディリアーニはピカソに次ぐ高額取引がされるモダニズム画家として有名で、最高210億円で作品が落札されるほどです。彼とピカソはモンマルトルにあった伝説の”洗濯船”で出会った仲です。当時モディリアーにはピカソの肖像画を残しています。

私がもらったら「お、おう。ありがとう」という感想にしかなりません。むしろ悪意さえ感じるかも。
以下ではモディリアーニの生涯やピカソとの出会いを深ぼっています。

シャガールとピカソの関係
”愛の画家”として著名なシャガールは、ピカソの6歳下ですが、同年代のパリで活躍する画家としてよく比較される存在でした。そのためか2人はあまり仲が良かったわけではないようです。以下の写真では、まるで仲が良いように写っていますが、実はかなりのライバル関係。

しかし晩年は2人とも南仏で陶芸を通じて一定の交流がありました。この時代は著名になる芸術家が同じ街で切磋琢磨していたことがよくわかります。
マティスとピカソの関係
ピカソの”盟友”であり”ライバル”でもあったのが少し先輩の画家、アンリ・マティスです。

「構図のピカソ・色彩のマティス」と呼ばれるように2人の絵の特徴は全く被っていませんが、それぞれ自分にはない部分に惹かれていたのかもしれません。特にピカソはマティスの絵をモチーフにして描いたり、マティスが亡くなった際に追悼の絵を作成しています。

ピカソは絵のスタイルが度々変わるように気まぐれで変則的なタイプですが、マティスは逆に真面目で1つのことにのめり込む博学タイプ。
「私は人々を癒す肘掛け椅子のような絵を描きたい」アンリ・マティス
マティスはそんな癒しの芸術を探求した人でした。ピカソの愛人で画家の「フランソワーズ・ジロー」著書「マティスとピカソ」では、2人の出会いややりとりや交流が語れていて、面白いのでおすすめです。
【もっとピカソを知りたい】おすすめの本
記事を書くにあたって、バルセロナのピカソ美術館にも行きましたが、より詳しく知るためにピカソ関連の本を5冊ほど読みました。その中でも以下はピカソについて、また現代アートの解釈に役立つなと思ったので、軽くご紹介します。

発売日:2022年3月20日
価格:3,740円(税込)
国内で販売されているピカソ作品集の決定版。著者は早稲田大学名誉教授でスペイン美術を専攻とする大高保二郎さん。ピカソの生涯から有名作品の解説が非常にわかりやすく載っていて、さらに大型本なのでインテリアとしても最高。迷ったらこの一冊がおすすめ。

発売日:2012年10月17日
価格:792円(税込)
ピカソを批評する内容ではなく、なぜピカソの一見”わからない”絵がそれほど評価され、高額取引される作品なのか、美術史や経済的な観点からわかりやすく教えてくれる一冊。「なるほど」という言葉が何度も出てきて新しい美術の視点を与えてくれる。読むと他のアートも色々観たくなる。
理解できない”隣人”ピカソに魅せられて
パブロ・ピカソは調べるほど理解はできない生き方をしているなと感じ、「実際に作品を観てみよう!」と思い、スペインのピカソ美術館で作品鑑賞をしました。
結果、ピカソの作画変化やキュビズム作品を目の当たりにして余計に頭がバグってしまう始末…。
それくらい彼は一般的な感覚や常識から逸脱した存在です。ただ調べる中で、なぜそのように変化していったのか歴史を紐どいていくと、不思議と絵の魅力が増してきました。
ここまで記事を読んでくださった方も、すでにピカソ作品をより楽しめるようになっているかもしれません。理解はしきれなくとも、少し身近に感じられるはず。彼の作品は”わからない”けれど、なぜか良いと感じる人が多いのは、感覚的に遠い存在ではないのが理由かもしれません。
ピカソ没後50年が経過しましたが、これからもピカソは我々の”理解できない隣人”として存在していくでしょう。

