下働きの「ミルクメイド」がゆっくりと静寂の中で牛乳をそそぐ。窓ぎわの光の中の一瞬の動きを切り取ったような人物を描く、フェルメールならではの画風が目をみはる本作。
17世紀オランダ絵画の黄金期、レンブラントが壁画のような大作を描いたバロックの時代に、フェルメールは真逆の道を選びました。風刺も、教訓も、謎解きも描かず、そして、名画になった作品が『牛乳を注ぐ女』です。

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【評価】「牛乳を注ぐ女」とは?

基本情報
| 作者 | ヨハネス・フェルメール |
| 制作年 | 1658〜59年頃 |
| 技法 | 油彩・カンヴァス |
| サイズ | 45.4×40.6cm |
| 所蔵 | アムステルダム国立美術館(オランダ) |
『真珠の耳飾りの少女』と並び、フェルメール作品では最も有名な作品です。
しかし、晩年に描いた傑作というわけではなく、早熟なフェルメールが20代半ば頃に描いています。この絵画がなぜ世界的に評価されているのかを紹介します。先にフェールメールについて詳しく知りたい方は以下をご覧ください。

類まれな光と色の設計
《牛乳を注ぐ女》で目を引くのが、女性のエプロンの鮮やかな青です。

この青には「ウルトラマリン」と呼ばれる顔料が使われています。原料は天然石のラピスラズリ。当時、宗教画で聖母マリアの衣を描くときに使われるような、最高級の素材で金よりも貴重でした。
フェルメールはこの高貴な色を、日常的な人々の生活を描くのに惜しみなく使用しました。さらにミルクメイドが着ている服は「鉛錫黄(えんしゃくおう)」。これは当時最も色鮮やかな発色となる黄色で、青の補色としてそれぞれが効果的に引き立てあっています。
さらに、テーブルの上のパンや籠の縁をよく見ると、細かい白い点が散らばっているのがわかります。

これは「ポワンティエ(仏:pointillé=点)」と呼ばれる技法で、光の反射を無数の小さな点で表現するものです。
結果、パンはざらざらして見え、カゴは光を受けて少し艶やかに見える。素材ごとの質感の違いが、視覚だけで伝わってきます。フェルメールの「見ること」への執着が、細部のひとつひとつに宿っていて、「神は細部に宿る」という言葉を思い出さずにはいられません。
以下では実際にオランダでこの作品を観てきた感想を写真と共につづっているのでご覧ください。

台所に「秘密」を仕込まないこだわり
17世紀のオランダ絵画では、台所や室内を描いた風俗画が大変人気を集めていました。その多くには、ある「お約束」がありました。

鳥籠、倒れた瓶、テーブルに転がるタマネギ、壁のキューピッド——これらはただの小道具ではなく、「性的な誘惑」や「貞節の喪失」を暗示するシンボルとして、当時の鑑賞者に共通認識として読まれていました。
同時代の画家ヘーラルト・ダウが描いた『タマネギを刻む娘』を見ると、そういった小道具がにぎやかに並んでいます。鑑賞者は絵を「読む」ように楽しんでいて、台所の絵とは、そういうものでした。
寓意性を避けたフェルメール
《牛乳を注ぐ女》の画面を今一度見回してみてください。

鳥籠も倒れた瓶も、誘惑を匂わせるシンボルはどこにもありません。
その結果、女中はただ牛乳を注いでいる。誰かの欲望の対象としてでも、道徳の象徴としてでもなく、ただそれだけの存在として、画面に立っています。
まるで古代彫刻のような量感で存在感を放つ女性は、庶民の日常を描いた風俗画を超えて、ある種の崇高ささえ漂わせています。このようにフェルメールは当時の主流であった絵画に寓意性(間接的に表現する技法・性質)をもたらす手法を避けていたのが大きな特徴です。
フェルメールが「消した」もの
X線調査でわかった地図と籠の痕跡
完成した絵の裏側に、消された歴史があります。

X線調査によって、背景の壁には大きな地図と洗濯籠が置かれていたことがわかっています。地図はフェルメールの他の作品にもよく登場するモティーフですがそれすらも消して、残したのは、白い漆喰の壁だけ。
同時代の多くの画家が壁にも情報を詰め込んでいた時代に、フェルメールは「意図的な余白」を作っています。
その結果、鑑賞者の視線は自然と女性と牛乳という主題へ向かいます。描くものを増やしたのではなく、削ることでこの絵は完成した——小林頼子さんが著書『謎解きフェルメール』で、これを「引き算の美学」と語っています。
フェルメールにとって「何を描かないか」は、「何を描くか」と同じくらい重要な選択だったようです。
実は他の作品にも登場していたミルクメイド

フェルメールは街並みを描くのも非常にうまかった画家です。生涯住んでいたデルフトの街並みを描いた本作ですが、実はここに小さく『牛乳を注ぐ女』の主題であるミルクメイドが登場しています。

アップしてみると、この通り川辺で談笑している彼女の姿がちらりと描かれています。
もしかしたらあの有名な『真珠の耳飾りの少女』もどこかに映りこんでいるのではないか?と探してみたくなりますね。

「牛乳を注ぐ女」はどこで見られるか

『牛乳を注ぐ女』は、オランダのアムステルダム国立美術館(Rijksmuseum)に所蔵されています。アムステルダム中央駅から徒歩15分ほど、ミュージアム広場に面した赤レンガの建物で、他のフェルメール作品も複数展示されています。
近くにはゴッホ美術館もあるので、時間がある人はどちらにも足を運んでみるのをおすすめします。

傑作の理由は、”削る勇気”

『牛乳を注ぐ女』は描いたものより、描かなかったものが多い絵です。
小道具を排除し、地図を消し、籠を消し、透視法さえ無視しています。フェルメールが積み重ねた「しない」選択の果てに、台所の女性は光が差し込む一室で静かに牛乳を注いでいます。
その姿に「尊厳」が宿って見えるのは、フェルメールが日常の中にこそ美しいものを見つけたからではないでしょうか。
参考文献
「謎解きフェルメール」-小林頼子・朽木ゆり子
「語りたくなるフェルメール」- 西岡文彦
「フェルメールに隠された次元」- 福岡伸一
「フェルメールの世界」 – ゲイリー・シュヴァルツ
「フェルメール原寸美術館」 – 千足伸行



