外の光が窓越しに優しく広がる空間に、無駄は削ぎ落とされた「引き算の美学」。その独自の型を作り出したフェルメールは、実は優秀な商売の眼を持った「マーケター」でした。
17世紀オランダは空前の絵画ブーム時代。そんな熾烈な競争の中で、フェルメールは家族を養うためにも画家として生き残る術を探していきます。
日本でも非常に人気の高いヨハネス・フェルメールが一体どんな人物だったのか、代表作とともにわかりやすく解説します。

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謎多き画家・フェルメールの生涯
「グローバル時代の夜明け」に育った10代

オランダ西部の小都市デルフト。その街でヨハネス・フェルメール(1632年〜1675年)は生まれました。
父レイニールは絹織物商を営みながら、宿屋を経営し、画商も兼業していた人物です。宿には多くの美術品が並び、富裕な客との取引が日常にある環境。フェルメールが物心ついたときから、絵は「売り買いされるもの」として身近に存在していました。
この時代のオランダは、世界へうってでた「大航海時代」。船でアジア・アメリカ・アフリカへと進出し、デルフトにも世界中の産物や文化が集まっていました。そんな「グローバル時代の夜明け」に育った少年、それがフェルメールです。
フェルメールの絵には地球儀・地図・タペストリー・染付磁器・打掛(ガウン)といったグローバル交易品が繰り返し登場します。幼い頃から「世界とつながった場所」で育ったことが、その感性の土台を作っていたのかもしれません。

ちなみにその当時の日本はゴリゴリの鎖国中。同時代の先輩画家には有名なレンブラントやピカソやマネも尊敬していたベラスケスなどが活躍していました。

話をフェルメールに戻します。この当時のヨーロッパでは画家を含め職人は「ギルド」と呼ばれる組合へ所属して、そこで修行に励み「親方」にならないと商売ができないというルールがありました。
15歳頃、フェルメールはギルド「聖ルカ組合」へ加入し修行に励みます。順調に才能を伸ばし、21歳で「親方画家」となり、晴れて画家デビューとなります。
ちなみにフェルメールの師匠は”謎”とされていて、いまだ明確な史料はありません。その中でもレンブラントに師事していてたカレル・ファブリティウスが有力候補の一人です。

彼は1650年代からデルフトでも活躍した画家で、光の描写や遠近法でフェルメールに強い影響を与えたと言われています。
物語画家を目指したファーストキャリア
「牛乳を注ぐ女」のように、フェルメールと言えば、日常の瞬間を美しく切り取る画家のイメージがあります。しかし、画家としてファーストキャリアは貴族が求めるような宗教画や神話を題材にした「物語画家」がスタートでした。
当時は絵画を購入するのは教会や貴族の時代。需要の高さを考えれば画家として当然の選択です。

1648年、オランダは80年にわたる独立戦争が終結。王様や貴族ではなく裕福な庶民が国を統治する時代になります。その結果、絵画需要はわかりづらい宗教画→庶民にも分かりやすい日常を描く「風俗画」へとシフトしていきます。
首都であるアムステルダムでは宗教画の注文需要は残っていたため、レンブラントはそこで活躍していましたが、デルフトのように小都市となるとその傾向は顕著。フェルメールは時代の流行をいち早く見抜き、「風俗画家」への転身を決意するのでした。
ちなみに、21歳でフェルメールはカタリーナ・ボルネスという女性と結婚しています。宗教の違いから義母は猛反対しましたが、フェルメールがプロテスタントからカトリックへ改宗したことで最終的に承諾したと言われています。
当時のオランダの平均的な子供の数は2人でしたが、フェルメール一家はなんと14名(うち11人が生き残る)。そんな人数を養うためにもフェルメールは”売れる”ことを念頭に置いたのは間違いないでしょう。
風俗画家へと転身し「独自の型」を見つける
元々、「物語画家」に憧れていたフェルメールからするると「風俗画家」への転身は簡単なものではありませんでした。
しかし、3年ほどかけて徐々に「フェールメール・ブランド」と呼べる独自の型を見出していきます。

モチーフはもちろん、人物配置と光の使い方、室内空間の構成など同時代の風俗画家から盗める技術は盗みつつ、フェルメール独自の「光×窓辺×引き算」の作風が見えてきます。
実はこの絵はX線にかけた結果、右上4分の1をキューピッドの絵がかけられていることが判明。これを手掛かりに復元したのが以下の絵。

「手紙」というモチーフの多くが「恋文」という意味を示唆しますが、さすがにキューピッドをドでかく入れるのは「分かりやすすぎる」と思ったのか、製作途中でキューピッドを塗りつぶしたようです。
その後、繰り返し描かれる窓辺で、光がそそぐ構図。その中でも代表作となるのが「牛乳を注ぐ女」です。

実はこの絵を描いた時のフェルメールはまだ26歳。まだ画家デビューを果たしてからたったの5年の作品ですが、この絵はもうフェルメール・ブランドの完成系と言えます。化粧気のないミルクメイドが牛乳を注ぐだけのシーンなのに、思わず目を奪われます。
赤・青・黄と3原色を主としたフェルメールらしい派手さは抑えた色彩ですが、窓辺から降り注ぐやわらかい光。写実性よりも見る人の眼を重視したフェルメールは、「ポワンティエ(点)」と呼ばれる技法で、テーブルの上のパン籠の縁にも光の反射を無数の小さな点で表現しました。

フェルメールの「見ること」への執着が、細部のひとつひとつに反映されていて、「神は細部に宿る」という言葉を思い出さずにはいられません。この絵を直接観てきた感想は以下で語っています。

ちなみに、義母がお金持ちであったため、この当時、金より貴重な天然石「ラピスラズリ」を顔料に使用できています。最高級の青を日常の風景にふんだんに使うという選択はフェルメール独自のものでした。
そしてこの絵でも、実は”消しているもの”があります。作品の詳しい解説は以下記事をご覧ください。

研ぎ澄まされた成熟期の30代
1662年、30歳で聖ルカ組合の理事に就任。組合史上最年少クラスの抜擢でした。この頃にはもう私たちがよく知る、いわゆるフェルメール作品を生み出していきます。


一目見て、「ああ、フェルメールの作品だ」となることで買い手がつき、それがさらなる買い手を誘い込む。そんな自己ブランディングがフェルメールのマーケターとして優秀な点です。
実際にこの頃にはデルフトに住むファン・ライフェン夫妻がフェルメール作品を21点も購入し、コレクター兼パトロンとしてフェルメールを支えていました。
この当時、32歳のフェルメールが残したのが、傑作『真珠の耳飾りの少女』でした。

1663年にはフランスの美術愛好家モンコニーがわざわざデルフトを訪れましたが、その際にフェルメールの手元に作品が残っていなかったと記されているため、デルフトを超えて国外にもフェルメールの知名度広まりつつありました。

時代に翻弄された晩年の40代
フェルメールは短命で43歳で亡くなります。健康面と言われていますが、正確な死因は残されていません。40代のフェルメールは当初の緻密な光や背景の処理などが30代のピーク時よりも簡略化されていきます。


これは健康面だけでなく、1672年のフランスの侵攻によって仕事の歯車が狂ったことも理由とされています。
また「描かない」ことを選択することで築き上げたフェルメール・ブランドでしたがこの頃のフェルメールの絵は宗教色の強いモチーフを入れ込む傾向が増え、絵が饒舌(じょうぜつ)になります。

1660年代からオランダ絵画業界は大きな曲がり角を迎えていました。肖像画家に転身する人や技法を変える人も少なくありません。戦争が起きたタイミングは「物語画」→「風俗画」という動きがあったように、フェルメールも顧客の好みに合わせた模索を試みていたのかもしれません。
1675年12月15日、フェルメールは妻カタリーナの実家で息を引き取ります。現存作品から推定するに全作品はたったの50~60作品。活動期間が22年感のため、年間わずか2~3作品ほどの制作となります。
そのため、フェルメール没後、未亡人のカタリーナは借金漬けとなってしまい7年後に亡くなります。フェルメール自身は生前、裕福な義母に支えられた環境のおかげで制作を続けられました。そう考えると、ゴッホしかり天才たちの周りにはいつも支えてくれる人がいますね。
死後200年後に再評価された
「ヨハネス・フェルメール」という名は、借金だけ残し、ほぼ忘れ去られていました。
再発見のきっかけは、死後約200年後のことです。
1866年、フランスの美術批評家トレ=ビュルガーが論文を発表し、埋もれていたフェルメールの作品を17世紀オランダ風俗画の傑作として世に知らしめます。

彼はフェルメールを「デルフトのスフィンクス」と命名し、10点から始めた調査で最終的に32点を特定。現在では真作は約37点とされています。
あのフェルメールが、200年近くも無名だったなんて今では考えられないですよね。
ビュルガーの再発見以降、フェルメールの評価は加速度的に高まり、20世紀に入るとその名は西洋美術史から切り離せないものになりました。
生前に残したわずか37点が、これほどの輝きを放っているという事実。量ではなく、質と独自性——フェルメールはそれを体現した画家です。
【最後に】現代にいたらインフルエンサーになっていた

SNSでは「バズる型」を見つけることで、ブランディングを行います。そしてそのバズった型で再生数を増やし、フォロワーを伸ばしていくのがインフルエンサー。
まさにフェルメールは自分の作品を発見してもらいやすくして、売るためにバズ手法を模索したマーケーターでもありました。
ただし、ただのマーケターではありません。世の中の流行や需要は鋭く察知しつつも、「光×窓辺×引き算」の理想を見つけ出し、それを極めた画家でした。独自性をもっていたからこそ、300年以上経った今でも愛される画家なのでしょう。



