アンリ・マティスが1916年に描いた肖像画《Portrait de femme (Lorette)》が、NYで競売に出品され、推定額上限を約27%上回る1,016,000ドル(約1.5億円) で落札された。
マティス転換点となった時期の作品
1916年秋、第一次世界大戦が3年目に突入していたパリ。マティスのアトリエにイタリア出身の若い女性が現れた。名前はロレット。彼女が去るまでの約6ヶ月間、マティスはロレット以外の誰も、何も描かなかった。その数、実に約50点。



当時のマティスは抽象表現の極限まで到達し、戦争の暗い空気の中で行き詰まりを感じていた時期だった。シカゴ美術館が2010年に開催した展覧会「Matisse: Radical Invention, 1913-1917」では、この時期を「彼のキャリアにおけるブラックホール」と評した美術史家もいるほど。
ロレットとの出会いは、そんなマティスの作風に明確な変化をもたらした。『ピアノのレッスン』に見られるようなそれまでの幾何学的で禁欲的な表現から、より感覚的で流動的な表現への転換だ。

マティスの伝記作家ヒラリー・スパーリングは、ロレットがマティスのリードに応じて自在に変身する能力を持ち、彼はその変化に即興的に応えながら描き続けたと記している。

謎のモデル、ロレットとは何者か
ロレットについてわかっていることは驚くほど少ない。イタリア出身のプロモデルで、当時おそらく20代後半〜30代前半(マティスは47歳)。
彼女の特性はカメレオンのような変身能力。時にはスペインのセニョリータ、時にはトルコのハーレムの住人、パリのコケット——衣装を替えるたびに別人になっている。メトロポリタン美術館の記録によれば、マティスは1916年12月から1917年末にかけてロレットを少なくとも25点描き、姉妹やアイーシャという女性との3人を描いた作品が約15点ある。
私もパリの「オランジュリー美術館」で3姉妹の作品を目にしている。戦争で暗かった時代であるが、マティスの色彩配置能力が抜群なことがうかがえる。


本作について

| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 作品名 | Portrait de femme (Lorette) |
| 制作年 | 1916年 |
| サイズ | 34.9 × 26.7 cm |
| 推定落札額 | 60〜80万ドル(約9,000万〜1.2億円) |
| 落札額 | 〇〇ドル(約〇〇億円)← 要更新 |
本作でロレットは物思いにふけるような表情で、視線をわずかに上に向けている。流れるような黒髪、ふっくらとした唇、頬に当てた手の仕草に、静かな官能性が宿る。マティスはここで従来の硬直した構図を捨て、自由な筆致と太い輪郭線で人物を描いた。鮮やかなターコイズブルーの背景が彼女の存在感を際立たせ、色彩によって形が語られるマティス特有の世界が展開している。
来歴としては、1962年にロンドンのプライベートコレクションへ渡ってからは、以来半世紀以上市場に出ることはなかった。マティスの孫ジョルジュ・マティスによる真贋確認も済んでいる作品だ。
YuReL編集部コメント

第一次大戦中は「色彩の魔術師」と呼ばれるマティスがあまり使わない黒をメインンした作品を残しています。

そんな戦争の暗い空気の中で禁欲的な抽象へと向かっていたマティスが、一人の女性との出会いによって感覚と色彩の世界へ引き戻されました。
その転換がなければ、後のニース時代のオダリスクも、晩年の切り紙絵も、違う形になっていたかもしれません。謎多きロレットは、マティスの歴史の中に静かに、しかし深く刻まれています。



