天がわしをもう五年間だけ生かしておいてくれたら、私は真の画家になれただろうに。
葛飾北斎
こんにちは。ライターのmizuhoです。
大人気のゴッホやモネに影響を与え、新札の裏表紙にも採用された「葛飾北斎」は、ドラマチックな人生を送っていたに違いない。
そんな淡い期待を抱き、葛飾北斎について調べてみたところ、斜め上の方向で裏切られました。
なぜなら、1999年、アメリカ雑誌の「この1000年間で人類史に最も貢献した100人」に選ばれた、たった1人の日本人は、とっても奇想天外な人だったからです。
日本が誇る葛飾北斎は、常に高みを目指しすぎて絵に狂った「画狂人」でした。彼の生涯を作品と共に記事にしてみます。
東京でひっそり暮らすアラサーOL。趣味は人間観察と面白いこと探し。苦手なことは頑張ること。30代で新しくできたあだ名は「分析」。一番好きな千円札は夏目漱石。
【3分で解説! 】葛飾北斎の性格・面白いエピソード
葛飾北斎ってどんな人? 簡単に概要紹介
葛飾北斎(1760 – 1849) は、現在の墨田区生まれ。「富嶽三十六景」を描いた日本を代表する浮世絵師です。
絵師としてデビューしたのは19歳頃。30代半ばから徐々に名を広めていきますが、ヒット作に恵まれたのは45歳。富嶽三十六景に着手し始めたのは70歳頃なので、遅咲きの絵師です。
亡くなる前年まで描き続けた作品数は、3万点以上と言われています。
そんな北斎についての幼少期の記録はほぼなく、本名にも様々な説があります。その一説に、時太郎(後に鉄蔵に改名)という名があります。
元々絵が好きだったという記録もありますが、版画を彫る仕事からスタートし、18歳頃に絵師の道に進んで行きます。多流派を転々とし勉強を重ね、独自の絵を模索し続けました。
北斎といえば風景画。と思うかもしれませんが、彼には何を書かせても天下一品の腕前。動植物、神様の絵、さらには妖怪と、全ジャンルで素晴らしい作品を残し続けました。
性格は、頑固・無愛想・自由奔放・飽き性・いくつになっても好奇心旺盛。お酒と煙草は一切やらない。びっくりするほどお金に無頓着。収入も支払いもまともに確認したことがないとのことです。
プライベートな部分で言うと、結婚は2回(19歳と37歳)、子供は6人。
娘「阿栄(あえい)」は、絵にしか興味のない北斎の生き写しのような女性。提灯絵師の元へ嫁いだものの、旦那の絵を散々笑い、離縁。晩年は北斎と一緒に絵を描いていたようです。
北斎は、89歳(数え年90歳)で亡くなります。死因は病死(老衰)です。
晩年の北斎は、「猫さえ上手く描けない」と娘・阿栄の前で涙したり、死ぬ間際までもっと絵が上手くなりたいと願っていました。
【おもしろエピソード.1】改名:約30回
飽き性の北斎は、名前を人に譲ったり売ってしまうのです。
18歳で初めて「勝川春朗」という雅号(ペンネーム)を手にした後に約30回名前を変更しており、「北斎」の名を雅号の一部として使用していたのは35歳から。
「北斎」は「北の書斎」を意味し、天上において唯一動くことのない星である「北極星」にちなんでつけたと言われています。
私が一番大好きな雅号は、75歳頃の「画狂老人卍」です。
40代で「画狂人」を名乗り、60代で「画狂老人」。その後、64歳で川柳にハマった北斎の川柳でのペンネームの「卍」を組み合わせたものだそうです。
あと春画を描くときのペンネームは「鉄棒ぬらぬら」。今でも売れそうな名前。ぜひ検索してみてください。
【おもしろエピソード.2】引っ越し:93回
掃除をする暇があるなら、絵を描きたい
葛飾北斎
絵以外に無頓着な北斎は、家が汚れたら引っ越す癖がありました。生涯で93回引っ越したという伝説があります。ひどい時には、1日に3回引っ越したことがあるようです。
家が何故汚れるかというと、書き損じや食べ物のゴミです。側から見たらもう完成してるじゃん!と思う絵でも、「気に入らない作品」はその辺にポイとぶん投げてしまいます。
ゴミで溢れかえると、近くの空き家に必要な絵の道具だけを持ってお引越しをしてしまうのです。
晩年の北斎は、離婚して出戻ってきた娘・阿栄と暮らしていましたが、彼女も絵にしか興味がないため、家事炊事は誰もしない、絵を描くのもゴミ屋敷を作るのも共同作業です。
自宅を構えたのは人生で一度だけ。あとは借家を転々とします。93回も引越ししているため、以前借りてた家に戻ってきたこともあったらしいです。
最初は効率目的だったかもしれませんが、後半は人生でどれくらい引っ越せるかを楽しんでいたようにも考えられますね。
作品と振り返る葛飾北斎の生涯
ここからは、葛飾北斎の生涯をちょっとだけ真面目に作品と共に紹介します。
北斎の中でも代表的な雅号(ペンネーム)に沿って振り返っていきたいと思います。
幼少期について
北斎は6歳から絵を描き始め、12歳の頃には貸本屋で働いていたとされます。
14歳頃には彫り師※をしていました。幼少期からの記録は冒頭での申し上げた通り、これくらいのことしか判明しておりません。
※.絵師→版画の元の絵を書く人 彫り師→絵を板に写し、彫る人 刷り師→色を付け、紙に絵を写す人 版元→絵を売る人
勝川春朗時代 ー 北斎史上 最も地味!
19歳〜35歳の頃の「葛飾北斎」は、彼の歴史上、最も浮世絵師らしい時期と言われています。
19歳〜20歳あたりで役者似顔絵の第一人者・勝川春章(かつかわしゅんしょう)という絵師の元に弟子入り。絵の上手な北斎は、「春朗(しゅんろう)」という雅号をもらい、1年後に絵師としてデビューをします。
北斎は、勝川派に所属しながらも他流派のスタイルも吸収しようとし、自己研鑽を重ねたそうです。実際に美人画・相撲絵・役者絵と、様々なジャンルの絵が発見されています。
20代前半の頃は人物表現をはじめ、全体的にぎこちない絵が多く見られますが、徐々に努力が現れて、絵がみるみる上達していきます。
※.黄表紙:しゃれ、滑稽、風刺をおりまぜた大人むきの絵入り小説
北斎史上、「最も浮世絵師らしい時期」と言われている理由が、没個性的で地味な作品が多かったからとのことです。ですが、昨今では「この時代背景を鑑みるとこの時代の絵としては多彩で多作」であると称されています。
この時期は、喜多川歌麿は美人画、東洲斎写楽は役者画、など突出した才能がある絵師が多かったため、北斎は抜きん出るものがなかったようです。
ですが、その分ジャンル問わずあらゆる人のエッセンスを取り入れ、自己研鑽していたと思われます。
そして、34歳頃に勝川派を破門になります。理由は諸説ありますが、私の大好きな説は、兄弟子の嫉妬によるイジメから、喧嘩が絶えなかった説です。自分の絵に勝手に筆を入れられた北斎が、ブチギレてボコボコにした説が大好きです。
宗理時代 ー エモい&アンニュイで大バズり
勝川派を離れたのち、俵屋派に所属し「俵屋宗理」という名前で活動を始めます。その後、独自の画法が完成。北斎辰政[ときまさ]として独立します。
この俵屋所属から独立までの36歳〜45歳を「宗理時代」と称しています。
この時代に、江戸で流行っていた「狂歌摺物※1(きょうかすりもの)」や「絵暦※2(えごよみ)」などで活躍の場を広げていきます。
※1.狂歌摺物:当時の江戸で流行った洒落や風刺を聴かせた、ちょっと卑猥だったり、滑稽だったりする大人向けの和歌。当時の金持ちの娯楽故、版元を介す必要がなく、版画の彫り・使う色・刷る紙が高級だったらしい。
※2.絵暦(えごよみ):絵のカレンダー。当時は文字を読めない人も多かったため作成された。
同時代の浮世絵師や、春朗時代の絵のタッチとは全然違う、可憐な中に少しだけ哀愁が漂うような表現で評判を得ました。今でいうと「エモい」表現方法です。
この頃の北斎の美人画は、優美さの中にどこか憂いを帯びた表情です。
中国の漢画や西洋画も取り入ることにより、当時としては斬新な画法で仕上げられる作品を発表したことが魅力となり知名度を上げていったようです。
約10年の間に複数回改名をしており、この時代の最後の雅号は「画狂人北斎」です。
この時期は肉筆画も多数見つかっております。
肉筆画は、一点物のため、版元を介す必要がないので、知名度と人気がない限り制作依頼がこないのです。このことから北斎はこの時期から人気があったと言えます。
ちなみに、春朗時代から宗理時代まで空白の4〜5ヶ月があると言われており、この時期で北斎の画風は大きく変わったのです。その間に北斎に何が起こったのか、誰も知る由もありません。
春朗時代に着実に努力を重ねたのだと思いますが、短期間でさらにレベルアップをしたことが事実として残っています。
そして、俵屋派に籍を置いていた際は、浮世絵を封印していたようですが、独立した後に浮世絵は復活しています。ただ、春朗時代に多く描いていた役者絵は一点も見つかっていないそうです。
肉筆画の依頼を受けるようになってから「注文者の言うことを無視する」という北斎伝説が出てきます。好きだなあ。
葛飾北斎時代 ー 親友は有名作家”曲亭馬琴”
葛飾北斎時代は、46歳~50歳の頃です。この時代に、初めて「葛飾」という冠(苗字)を雅号に取り入れました。
この時期の特徴は、漢画の影響を受け、豪快で大胆な画法を用いるようになった点。結果、宗理時代の優美で叙情的な雰囲気は一気に消え去ったのです。
画法の変化のきっかけは、読本(今でいう翻訳小説的なもの)の挿絵と言われています。読本は内容が複雑で、挿絵を担当する絵師には相当な知識や高度な技術が求められていました。
挿絵は浮世絵や肉筆画と違い、墨一色、あるいは薄墨で表現するため、色彩の自由が効かないのです。その中でどのように臨場感ある場面を描き、読者を魅了するかは全て絵師の手腕にかかっていました。
北斎は、墨の濃淡を利用し、絵に迫力や奥行きを出す表現が群を抜いて素晴らしく、実力を発揮していきました。
”読本”という分野も北斎の挿絵により流行したとされ、北斎の発想力や技術は、他の絵師の追随も許さなかったと言われています。
上記は、有名作家の曲亭 馬琴の、『新編水滸画伝※2』の挿絵を担当した絵です。2人は大変仲が良く、提携作をたくさん発表していきます。
※,曲亭馬琴(きょくていばきん):別名「滝沢馬琴」。小説家的な人。本のお金だけで生活できていた日本の初めての著述家。代表作は『椿説弓張月』『南総里見八犬伝』
同居していた説もあるほど仲良しだった。
ただ残念なことに、仲違いしてしまいます。作品に対する価値観のズレで口論になってしまったからのようです。天才同士ゆえの喧嘩なので、しょうがないですね。
馬琴意外からも、仕事はありましたので、北斎は挿絵に集中するようになりました。
摺物や絵暦などは大幅に減少していき、浮世絵や肉筆画も少なくなりました。ですが、浮世絵にはユニークで力のこもった作品が見られます。
この頃の浮世絵の代表は、名所絵の「東海道五拾三次」です。
こちらは、1806年頃 47歳の北斎が描いております。超有名な歌川広重の同一名の作品よりも約30年早い時代の作品です。北斎の東海道五拾三次は、旅人や街道の風勢に主眼を置いているのが特徴と言われています。
昔の作品と比較すると、画圧があり、タッチが細かく、絵に奥行きがあります。この画風の変化から、海外のエッセンスを取り入れていることを感じ取ることができます。
戴斗時代 ー 北斎漫画の発表
51歳〜60歳頃を「載斗時代」と総されることが多いです。「載斗」の雅号は、約9年間用いられました。
この時代には、「絵手本」というものを多く手掛けておりました。
浮世絵の絵手本は、初心者さんにとっては真似して学べる教材であり、上級者さんにとってはアイディアを得る参考書として用いられたようです。
木版による絵手本は、印刷技術と同義なので、大量に本を疲れるので「弟子が多すぎて教えられない」「自分の画風を普及させたい」という理由から制作に力を入れていたと考えられます。
一説で、北斎が自分こんなに絵描けるぞっていう自慢なのでは?という話もあります。でも、絵手本を見ると北斎が今までどれだけ絵を描いてきたかを痛感できます。あっぱれです。
絵手本の中で最も有名な「北斎漫画」は、晩年まで続く15篇の大連載となります。
北斎は、この絵手本への着想を52歳〜53歳頃に名古屋に旅に出ていた際に思いつきます。
この旅中に、北斎漫画の下図300枚ほどを書き残したようです。この時期に自然にたくさん触れ、絵に没頭したことにより、次の時代に繋がる何かを得たのかもしれません。
北斎漫画だけでなく、数々の絵手本を発行し続けていた北斎。個人的に三体画譜の言葉がとても好きなので紹介させてください。
真行草の筆意を分かち 人物山川草木禽獣虫魚に至るまで あまねく巻中に尽せり
葛飾北斎「三体画譜」巻末広告
簡単に訳すと、この世にあるもの全て「基本」「型」の本質を理解するから、新しい着想が生まれるのであり、そこから斬新なアイディアが生まれる。それを本書に書き留めた。 という感じかなと思います。
北斎の絵手本は、写実的な絵からユニークな絵まで種類が豊富で、見ているだけでも楽しいことから当時の江戸では大変人気だったようです。
また、絵手本以外では錦絵※を描いていたようです。大変細かく、豪華な作品です。ぜひ過去の浮世絵作品と比べてみてほしいのですが、格段に絵が上手になっていますよね。
※,錦絵(にしきえ):多色刷り木版画。カラフルで、錦(高級な織物)のように美しいことからこの名前がついた。
為一時代 ー 富獄三十六景 制作
数え年61歳~74歳頃までが、為一期と呼ばれる時代です。この時代は前期と後期に分けられます。
前半は、狂歌摺物や狂歌本の挿絵に力を入れた時期。後半は富嶽三十六景など今の葛飾北斎を象徴する作風景画に力を入れた時期です。
前期の作品は、正方形に近い形の摺物が多く、華やかで精巧な彫りと摺りが駆使された豪華なものでした。この時代の代表的な作品が「元禄歌仙貝合」。貝名から連想した狂歌や絵を載せた、全36図の摺物のシリーズです。
ここには”何か”を、当時の人々の遊び心を刺激し、大人気だったようです。
扇に描かれてるのが竹のように見えなくもないですし、プレゼントみたいに積まれているし、かぐや姫かなあ。きっとかぐや姫を描くなら子安貝かなあ。なんて一生考えてられます。北斎は、ユーモアがある人なので、こういうのが大得意だったのではないかと思います。
為一時代の後期は、60歳後半から74歳までの時期で、生涯のうちで最も浮世絵版画制作に力を注いた時代です。
この時期に書いた浮世絵には、風景画・名所絵・古典画・花鳥画・妖怪画が挙げられます。中でも風景画は北斎が確立させたジャンルです。
当時の浮世絵は、江戸の人々の生活を書くことが主流だったので、絵の中に人間がいるのが普通でしたが、北斎は富嶽三十六景では富士山をドーンと書き上げる作品もいれちゃったのです。
三十六景と言いながら四十六景。日の出から早朝、夜に至るまで、四季折々・色々な時間の富士山が描かれています。同じ構図から富士山の変化を描いている作品は、印象派の「連作」にも影響を与えています。
たった一瞬しか現れない夏から秋へと景色が変わる瞬間の、朝日を浴びた富士山のほんの一瞬の赤富士景色です。壮大で威厳のある様子を絵にした凱風快晴は、世界の芸術家たちに影響を与えたと言われています。
白雨とは夏の夕立のことを言います。山の麓では雷雨が轟き、豪雨。一方で、雲の上は青空。富士山の頂上は夏の夕日に綺麗にを待っています。ここで北斎は、自然と真摯に向き合ってきたことで掴んだ自然の恐怖と神秘的な美しさを描いています。
風が激しく、海が大荒れしている中で、3艘の船に人がしがみついています。
森羅万象を愛し、よく観察してきた北斎だからこそ描くことのできた神秘的な美しさの表現と、自然への畏敬がこもっている作品であると感じます。
また、これらの3作品ですが、大体描かれた場所は想像がつくのですが、どこから見て書いた景色なのか?を考えると大変不思議に思う絵です。特に神奈川沖浪裏は、波の中から見上げない限り、見ることのできない景色です。一体北斎はどこから何を見てこの作品たちを描き上げたのでしょうか。
ちなみに北斎は、68~69歳の頃に脳卒中で倒れており、2〜3年後に富嶽三十六景を書き上げています。
さて、この時期の浮世絵の代表作は「諸国名橋奇覧」です。
風景画と一味違いますが、この作品集は、橋の造形を描きたくて書いたのではないか?と言われています。
ついでに、私の大好きな北斎のお花シリーズ 「花鳥画」もこの時期です。お花全体を描くのではなく、美しいと思う部分をトリミングし描くことで、迫力と繊細さが伝わってきます。北斎は、対象物の切り取り方がとても上手です。
葛飾北斎は、森羅万象の基本・表裏をすべて理解したいと願うからこそ、美しさと威厳を同時に表現できていると思います。そして、自然に対する畏怖の念を感じます。
画狂老人卍時代 – 最も貪欲期
(略)九十歳ではさらに奥居を極め、百歳になってまさに神妙の域になるのではないか。百何十歳では、描くものの一点一格が生きているようになるだろう。願わくば長寿を司る聖人(神)よ、私のこの努力への言葉が偽りでないことを見ていてください
「富獄百景」初編の巻末の葛飾北斎の言葉(葛飾北斎の本懐 の翻訳文より抜粋)
北斎が、晩年にもっと絵を描きたい。と願い綴った言葉です。
75歳〜90歳が画狂老人卍の時代とされ、79歳頃から一作ごとに絵の中に年齢を記すようになりました。作品自体を自分の記録とし、技術の向上を目指していたことが伺えます。
鶏を描いた最高傑作と言われる群鶏図はには「先の北斎画狂老人 齢七十九歳」と書かれています。(中島〜は葛飾北斎の(養子縁組の)家名)
下部の絵には「画狂老人卍 齢八十? 筆」。
この時期、浮世絵版画の制作は減少しました。その代わりに力を入れていたのが、己の発想を思う存分に発揮できる肉筆画でした。
肉筆画が増えた理由として、北斎が「やりがい」を見出したことが一番の理由となるかと思います。
浮世絵版画は、版元を介すので「売れる絵」描き続ける必要があります。当時の売れる絵は、江戸の日常を切り取った作品。
北斎が「描きたい絵」は動植物、信仰対象、和漢の故事古典を題材とした作品で、「売れる絵」ではないため、依頼が減少。ただ、木版画である絵手本は、教育本の類なので流行は関係ないため、出版が継続していました。
力を注いだ肉筆画は、個人から依頼を受け、希望にある程度沿っていれば、北斎の発想力と表現力を駆使することができました。やりがいを持って制作活動に望めていたことが、現在で残っている夥しい作品数から見て取れます。
また、依頼がある=人気がある ということなので、当時の江戸で、北斎は浮世絵に留まることなくどんなジャンルの絵を書いても売れていた、ということになります。
そして、1849年(嘉永2年)、「富士越龍図」を完成させた3ヶ月後の4月18日に享年90歳で永眠しました。
富士越龍図の落款は、九十老人卍筆。90歳の北斎の、最後の作品は、北斎がずっと描き続けていた富士山でした。雪に覆われている富士山の後ろに黒い煙が上がっている。その中を竜が上に登っていく姿は、感慨深いものがあります。
葛飾北斎の特徴・モネやゴッホとの繋がり
「浮世絵」についての説明と、「北斎ブルー」と呼ばれる富嶽三十六景で使用された”青色”について紹介します。
また、少しではありますが、モネやゴッホに影響を与えたとされる絵を並べて紹介します。
種類ー「浮世絵」とは
浮世絵は、版画です。
一つの作品は「絵師」「彫り師」「刷り師」の3人の職人から成り立っています。また、浮世絵のモチーフとなったのは、江戸時代から大正時代にかけての庶民の生活や風景でした。
絵師も庶民が多く、庶民の芸術 として楽しまれていました。
江戸時代の日本では、武士が意気揚々と威張り散らかしており、庶民にとっては嫌なことばかりで、「せめて絵の中だけでもウキウキ浮かれて楽しく生きたい」と言う思いから「浮世」の文字が付けられたと言われています。
初期の浮世絵は、2~3色展開でしたが、18世紀半ばから多色刷りの版画が生まれ、色鮮やかなものへと変化を遂げていきました。
特徴ー「北斎ブルー」とは
富嶽三十六景で使用されている色鮮やかなブルーの絵具は、プルシアン・ブルーというものです。
プルシアン・ブルーが輸入されるまでの藍色は、つゆ草の薄い青や、本藍と呼ばれる渋い青。ですが、プルシアン・ブルーを使用することで、これまでの浮世絵にはない色鮮やかなブルーを表現することを可能にしました。
プルシアン・ブルーとは?
プルシアンブルーとはベルリンで偶然に発見された合成顔料で、当時の日本では「ベロ」と呼ばれており、現在では「ベロ藍」と表記されています。オランダを経由し、1747年に日本に入ってきました。(日本がオランダと交流を持ち始めたのは1600年。)はじめは高級品でしたが、1800年代に入る頃になると、中国で製造されるようになり、誰でも使える絵の具となりました。
それまでに使用していたブルーとは異なった、高発色の鮮やかなプルシアン・ブルーは、浮世絵に使われていた和紙との相性が抜群でした。そして、摺師の丹念な技術が加わることにより、北斎の作品を最高なものとできたのです。
葛飾北斎期の「東海道五拾三次」と富嶽三十六景のブルーを並べてみました。色の表現の幅が広がり、表現の幅が広がっているのがわかります。
北斎にとって、このブルーに出会えた喜びはとても大きかったのだと思います。映画「HOKUSAI」でもブルーに出会えた喜びを表現しているシーンがあるのですが、印象的なのでぜひ見てほしいです。
繋がりーゴッホとモネ。ついでにドビュッシーも。
印象派の絵師たちが、日本の浮世絵から何を得たのか。という部分ですが、「当たり前の自然を描く大切さ」と言われています。
そもそも西洋の歴史を遡ると、絵の主人公とされて来たのは神や偉人などで、写実的な作品が美しいとされてきました。
そこに対し、浮世絵は全てが主人公となり得ます。さらに輪郭線をはっきり使って、線に囲まれた各領域を単色で描くデフォルメの方法や、全部ブルーで描いたりする自由な色彩表現、好きに構図を変える表現は、西洋の絵師からしたら衝撃的でした。
浮世絵はどうやって世界に広まっていったのか?
一つ目は、長崎のオランダ商館に医師として出向いていた、ドイツ人のシーボルトさん。彼は博物学者も兼任しており日本の全てを知りたがっていました。ちょうど北斎が発行していた「北斎漫画」は自分が望んでいたものでした。そこからシーボルトが祖国にたくさん持ち帰り、各地に散らばっていきます。日本開国前の1843年には、パリの国立図書館に本や資料が登録されており、そこに北斎等の浮世絵師の名前があります。
二つ目は、当時西洋では日本の陶器が流行っており、無価値だった浮世絵が緩衝材などして使用されていました。1856年に鋼版画絵師兼陶、磁器の絵付け師だったブラックモンさんは、輸入品を開けたときに緩衝材として使われていた絵があまりにも素晴らしく、友達に自慢して回ったそう。それが後に北斎漫画とわかり、北斎の名が知れ渡ったと言われています。
まずはフィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)の作品と並べてみましょう。
初期のゴッホは、過去の絵師たちの影響を受け比較的地味な作品を描いていましたが、画商をしていた弟テオと同居生活を始めると、印象派の仲間たちの影響で浮世絵の魅力に心酔し、私たちの知るゴッホらしい絵に進化をしていきます。
続きまして、クロード・モネ(1840-1926)です。
特にモネは日本の浮世絵をこよなく愛したと言われています。彼の「目にみえるありのままを描きたい」といった信念も、浮世絵の影響なのではないかという説もあります。
モネが晩年に作ったジヴェルニーの庭は、西洋の作りではなく日本的。植えてあるお花たちも日本らしいものが多いです。建てられている橋は、私には富嶽三十六景に見られる橋のように見受けられるのですが、どうでしょう?
さらに北斎の富嶽三十六景の波は、クラシック音楽界にも影響を与えています。
クロード・アシル・ドビュッシー(1862-1918)は神奈川沖浪裏のグレートウェーブに感銘を受け、「海(ラ・メール)」を作曲しました。
当時は「どこが海だよ! 」と酷評だったようですが、ドビュッシーは「自然のうちにある、目には見えない感情の転写だ! 」と言って退けています。北斎イズムを感じます。
1905年に出版された『海』初版楽譜の表紙には神奈川沖浪裏の絵が使われています。(北斎の当該作品には3艘の船が描かれておりますが、省かれています。)
北斎や浮世絵に影響を受けた人たちは、きっと、”自分”を大切にすることに重きを置いたのかもしれません。今までの伝統や美しさや、誰かに評価されることよりも、自分の五感で感じたものを表現することに楽しみを見出したのではないかな、とか思ってしまいます。
【まとめ】葛飾北斎はロジカル仙人。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
葛飾北斎という人物は、私にとって非常にインタレスティングでカッコいい人でした。
北斎は、対象の本質を理解することで完璧に描きかかとを望み、自分の作品に踏襲し続ける、THE ロジカル人間でした。
彼のようになれたら、低気圧で機嫌が左右されるとかなさそう。と思い、北斎は仙人。という持論に辿り着きました。戦前の日本の平均寿命は50歳くらいなのに、彼は90歳まで生きたのですから、ほぼ不老不死です。
「絵が上手くなりたい」という欲が彼の原動力。そんな北斎から学んだことは、苦労して見つけた単純な動機こそ強い原動力になる。ということでした。
私は、中学生の頃からダイエットをしていますが自分の腹筋を見たことがないです。ということで、心に北斎を宿し、腹筋を見るために行動してみます。