ベートーヴェンが耳が聞こえないのに音楽を作曲したように、私は見えないのに絵を描く
クロード・モネ
あなたはクロード・モネと聞いて、どんな絵を思い浮かべますか?
私は、「色鮮やかで美しい風景画」を想像していました。
ですが、モネの晩年の作品を見て、そのイメージが彼の作品全てに共通するわけではないことを知り、ショックを受けました。
上野で開催している「モネ 睡蓮のとき」は、彼の晩年の名作である「睡蓮」が多く展示されており、クロード・モネの表現の変化に焦点を置いている展示会です。
初めて見たモネの絵は、彼が30代頃の作品で、宝石のようにキラキラして美しかったのに、今回の作品達から感じたのは「時代を変えた芸術家」の信念・覚悟・情熱。
モネは、どんな状態になろうとも「自分の目に映る景色の印象」を大切にし続けていたのだ、と感じました。
彼がどのような背景で、代表作「睡蓮」に挑戦していたのかを一人でも多くの人にシェアしたくなったので、晩年にフォーカスしてお話をします。
あなたもモネおじいちゃんのことがさらに好きになってくれますように。

東京でひっそり暮らすアラサーOL。趣味は人間観察と面白いこと探し。嫌いな言葉は「努力」と「忍耐」。30代で新しくできたあだ名は「分析」。
【解説】晩年のクロード・モネ

フランス出身の画家であるクロード・モネ(1840 – 1926 享年86歳) は、独自の方法で光や色彩を自由に表現することを重視した印象派グループの創設者の1人です。
モネは、日常の光加減や色彩が変化をする様子を好んでおり、「光の画家」と言われるほど、鋭い感性と豊かな表現力を持っている人でした。
彼は様々な場所を転々として暮らしていましたが、晩年はパリのジヴェルニーを拠点としました。
ジヴェルニーで購入した家では庭園を作り、そこでたくさんの絵を描いて晩年を過ごしました。
モネと睡蓮の出会い
まず、モネが睡蓮と出会ったときのお話をします。
私はまさしく水を撒く。美しく、青い水を
クロード・モネ
モネは昔から、印象派を代表する画家エドゥアール・マネに『水のラファエロ』と称賛されるほど、水を美しく描くことに長けていました。

モネは、パリ万博で睡蓮に出会いました。当時49歳でした。
水の上に咲く、美しい睡蓮に心奪われたのです。
彼は、日本文化が好きだったことともあり、東洋的な美しさのある睡蓮を気に入りました。その後50歳でジヴェルニーに家を購入し、睡蓮の咲く池、通称「水の庭」を作り始めます。
私は再び不可能なことに取り組みはじめました。それは、底に草がゆらめく水です。眺めるぶんには素晴らしいのですが、描こうとすると気が狂いそうになります。
1890年6月22日 モネ(50)が批評家のジェフロワ宛に送った手紙-Le denier Monet P.54
そして、「水の庭」の水底に根付いた睡蓮が絵のモチーフとして世に放たれたのは、1897年。モネが57歳になった頃でした。

その後、私たちの知る睡蓮の連作に挑戦したのは、1900年、モネが60歳になった頃です。
モネは86歳で死去するまでに、この「水の庭」を約250点描きました。
連作とは
同じモチーフを複数枚描き、季節や天候、時刻によって変化する光や色彩を表現した作品
モネと目の病気
モネは72歳で白内障と診断され、83歳でやっと手術をします。
3度に及ぶ手術をしても、彼は昔のような光や色で輝いた世界を見ることはできませんでした。
モネの眼はひとつの眼だ。絵描き始まって以来の非凡な眼だ。
ポール・セザンヌ-Le denier Monet P.142
印象派グループの一員である、ポール・セザンヌが語ったとされる言葉です。
著名な芸術家から観察力や表現力を賞賛されるほど、光や色彩を描くことに長けていたモネ。
そんな唯一無二の「眼」の視力が低下してきたのは1908年 68歳の時でした。
そして、睡蓮の連作を手掛けてから約10年後の1912年、72歳の頃に「白内障」の診断を受けます。
色を認識するのが困難になりました。目に映る世界が黄色っぽく見える日もあれば、青っぽく見える日もあるようになりました。特に、緑と青、赤と紫の区別が難しくなっていたのです。
モネが60歳の頃に描いたアイリスが咲き誇るジヴェルニーの庭です。

画像で見ると、どこに筆の跡があるかわからないほどに、細かく色が重なり合って一つの風景を完成させています。
そしてこちらが白内障発症後に書いたジヴェルニーの庭に咲くアイリスです。

筆触 (絵画において筆さばきによって生じた色調やリズム感などの効果、または筆の跡) が以前と比べて大胆に見えます。
そして、次の作品はモネが晩年に住んでいたジヴェルニーの家の庭。以下2枚は同じモチーフなのです。


1920年 80歳の頃から白内障はどんどん進行し、物体同士の境界も曖昧になっていました。
それでも、モネは「自分に見える景色」を描き続けました。
当時、周囲から「モネは老人すぎて、今じゃ奇妙な色の絵を描く」と言われても、彼の信念はブレませんでした。
「君たちが今非常に美しい色だと言って褒めてくれている自分の昔の画も、私がそれを書いた当時は、人々は変な色だ、変な色だ、と言って非難していたよ、だからこの作の色も、今は君らは変だなどと言っているけれども、将来は、これは実に美しい色だというようになるよ」
1921年 クロード・モネ
ただ、1922年 82歳になると、右目はほぼ失明状態。黄色と赤が見えなくなり、1923年に手術をすることを決意します。
白内障の手術を3回しても、彼の知る色鮮やかな世界は戻ってこなかったようです。
時折挫けそうになっても、周囲の支えられ、モネは死ぬまで、自分の眼に映る、その一瞬を描き続けました。
睡蓮と奇跡
モネは、睡蓮の大作を第一次世界大戦の勝利記念としてフランスに寄贈しました。
実は、この睡蓮を私たちが今も目にすることができるのは、モネや周りの人の情熱と、奇跡があったからなのです。
妻と息子の死、悪化する病気の影響で日に日に気持ちは沈んでいき、睡蓮の寄贈を何度も諦めかけたモネ。
それでも最後まで成し遂げることができた背景には、モネの青年時代からの盟友「ジョルジュ・クレマンソー」の支えがありました。
彼がモネを敬愛していたから、晩年の大作「睡蓮」ができたと言っても過言ではありません。

1914年から1918年、フランスは第一次世界大戦の真っ只中でした。
1918年11月11日に休戦協定が行われた時のフランス首相が、モネの友人ジョルジュ・クレマンソーです。
モネは休戦協定の翌日、「睡蓮の大作が2枚完成したら、勝利の記念として国へ寄付したい。」と、クレマンソーへ申し出たのです。
我々の視覚能力の究極の進化によって、見るという行為が洗練されたた時、どれほどの喜びが待ち受けているか、知る由もない
クロード・モネに対するジョルジュ・クレマンソーの評価
クレマンソーは、モネの連作の大ファンだったので、この申し出を喜び、国家プロジェクトにしました。
そして、モネの絵を飾るために、ロダン美術館の中庭に新しく楕円形の建築物を建てる試みをはじめました。
最初にモネが寄贈しようとしたのは、当時製作中だった睡蓮のパネル2枚でしたが、クレマンソーからの「折角だから部屋いっぱいに飾ろうよ!」という提案を受け、モネは挑戦することに決めました。
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ですが、国家プロジェクトが開始された直後、クレマンソーは政治活動から離れてしまい、プロジェクトの進行は遅くなりました。
1920年、計画の進みが遅いことに苛立っていたモネ。いざ計画が進み、作品を展示する建築物を建てようと進めた時にゴネたりと、モネの頑固さが炸裂していました。
そんなモネを宥め、国と仲介してくれたのもクレマンソーでした。
そして、翌年クレマンソーがオランジュリー美術館とジュデュポン美術館を視察し、オランジュリー美術館に展示するのはどうかとモネに提案しました。
その1週間後にモネも視察に行き、国家寄贈した睡蓮の大作はオランジュリー美術館に展示することに決めたのです。
こんな流れで1922年 モネが82歳の時に国家寄贈することが本確定しました。
ただ、その年にはモネの白内障悪化が悪化します。モネは悲しみ、自暴自棄になり「国家寄贈を辞退したい」と言い、準備していた作品を数十枚破棄してしまいました。
もちろん、そんなモネを励ましたものクレマンソーでした。「私に光を教えてくれたのはクロード、あなたですよ」と、モネに伝え続けたのです。
そしてモネは1923年に目の手術を行います。でも、彼の視界は戻ってきませんでした。
ここで2度目の国家寄贈の辞退を申し出です。
献身的なクレマンソーでしたが、流石に堪忍袋の緒が切れてしまい、2人は絶縁状態となりました。
モネは、大切な友達さえも失い、塞ぎ込んでしまいました。
そんなモネを見かねた義理の娘がクレマンソーに連絡し、2人は仲直りしました。そして、モネをずっと励まし続けたのです。
モネが亡くなる1年前の1925年、奇跡が起こります。モネの視力が回復したのです。
そんな神様のギフトがあり、無事絵が完成したのです。
モネの死因
クロード・モネは、1926年 86歳の時、愛するジヴェルニーの自宅で息を引き取りました。
死因は肺硬化症でした。
肺硬化症とは
肺硬化症は、肺胞の壁が硬くなることで呼吸機能が低下する病気です。肺線維症とも呼ばれ、間質性肺炎の一種に分類されます。
モネの最後の絵は、オランジュリー美術館に寄贈予定でした。そして、「最後の絵は、自分が死んだら持っていってほしい」とお願いしていました。

そして、モネの死の翌年1927年に、オランジュリー美術館に睡蓮の連作が正式に寄贈され、公開されました。

クロード・モネ 晩年の名作を堪能できる美術館 2選
日本でも展示会等で見る機会が多いモネの作品ですが、モネと縁の深い美術館を2つ紹介します。
マルモッタン・モネ美術館(フランス・パリ)
モネの死後の1966年に、次男が絵画を寄付したのがパリの閑静な高級住宅街の中にあるマルモッタン・モネ美術館です。
マルモッタン美術館の後ろに「モネ(monet)」の名前が付いたのは、その寄付の後となります。
マルモッタン美術館では、晩年の作品を見ることができるだけでなく、「印象派」という名前の起源となった『印象・日の出』が鑑賞できます。

マルモッタン美術館には、モネの睡蓮の絵も寄贈されております。


他にもルノワールや、ベルト・モリゾ(エドゥワール・マネの絵のモデルとしても有名な印象派画家)の作品も展示されています。

日本で展示会が行われる際に、マルモッタン美術館から作品が貸し出されることが多い気がしますので、パリに行かなくても見れる機会はあります。
本当にありがたい美術館です。
オランジュリー美術館 (フランス・パリ)
モネが国家寄贈した睡蓮の大作を見ることができるオランジュリー美術館。
睡蓮が飾ってある2つの部屋は、モネの拘り(一歩間違えれば我儘)が詰まっています。
まず、睡蓮を美しく飾るためには光が必要である、と主張したモネの意思を尊重し、天井に穴をあけ、本当に太陽光が入るようにしました。
さらにオランジュリーの睡蓮には保護ガラスありません。

理由はまたモネの主張。ガラスがあることにより、光が反射してしまい、絵の色彩が変わることを拒んだのです。
展示室の作りも、モネの絵に対する敬意が伝わってきます。

まず、モネの展示室に入る前には、基本的に何もない空間が広がっています。(たまにモネに関する企画展の内容が展示されていることもあるとのこと。)
その空間で、一度気持ちをリセットしてからモネの世界観に没入していきます。
展示室は、縦方向に2部屋あります。奥が東に、手前は西側に面しています。円形の部屋を囲うように、モネの睡蓮の大作が広がります。
展示作品は、太陽が昇る東側は、朝がテーマの作品。太陽の沈む西側は日没後が主なテーマになっているのです。

モネの作品を愛していた人々がたくさん携わっていたんだろうな、ということが伝わってきます。
オランジュリー美術館には、モネ以外の方の名画がありますので、是非こちらの記事も読んでいただけると嬉しいです。

【まとめ】モネおじいちゃんが好き
モネは、最後まで周りに愛されていました。そして今も愛されています。
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私は、お家に飾るならモネの美しくてキラキラした絵がいいなと思います。でも、美術館で足を止めてしまうのは、晩年の作品です。
すごくワガママで自分勝手な人だったけれど、それは彼の信念が強すぎるがゆえ。その信念が詰まった作品から受け取るエネルギーは、言葉では表しきれません。
歴史を変える人は、すごく批判をされます。でも、歴史を変えた人は、私たちの心を豊かにしてくれます。
色んなことを乗り越えてくれてありがと、モネ。

