【狂気を飼いならした男】エドヴァルド・ムンクの生涯を解説

エドヴァルド・ムンクは、『叫び』のイメージが強すぎるせいか、若くして心を病み、破滅していった画家を思い浮かべるかもしれません。しかし、実はムンクは80歳まで生きています。

彼は狂気に飲み込まれた画家ではなく、むしろ生涯をかけてそれとの付き合い方を学び、最後は狂気を飼いならした画家でした。

レオナルド・ダヴィンチが人体を研究し、死体を解剖したように、私は魂を解剖する。――エドヴァルド・ムンク

一体どんな”闇”を抱え、飼いならすまでに至ったのか。代表作を振り返りつつその80年の生涯を追いかけてみます。

筆者:ゆるり

「正確に、けれども面白く」を
モットーにアートの世界を紹介する編集者。

目次

【1分で解説】ムンクってどんな人?

エドヴァルド・ムンク(1933年)
エドヴァルド・ムンク(1933年、70歳頃) ©Wikipedia

エドヴァルド・ムンク(1863〜1944年)は、ノルウェー出身の画家。世界一有名な「不安の絵」ともいえる《叫び》の作者として知られています。

5歳で母を、13歳で姉を、どちらも結核で亡くし、自身も生涯病弱でした。20代で家族の死や失恋を作品に昇華し、パリ・ベルリンでの活動を経て、30歳で有名な『叫び』を完成させます。

生に対する私の恐れは病気とともに私には必要なものだ。不安と病気なしには、私は櫂(かい)のない舟のようなものだ。――エドヴァルド・ムンク

いますよね、漫画「東京喰種」のカネキくんのような、病めば病むほど強くなるタイプの主人公。それです。

しかし、45歳のとき精神的な危機で長期入院を経験し、そこから「酒・タバコ」を完全に断ち、驚くほど”健康的”な後半生を送りました。画風も徐々に「陰→陽」へと変換してき、80歳で死去するまで、旺盛な創作意欲は衰えませんでした。

ムンクの生涯を追いかける

死がまとわりついた少年時代

ムンクは1863年、ノルウェーのレーテンに、軍医の父クリスチャンと母ラウラのもとに生まれます。5歳のとき、母は結核で死去。育ての親となった叔母カレンが家族を支えました。しかし13歳のとき、最愛の姉ソフィエも同じ病で亡くします。

病は幼年時代、青年時代の私につきまとった。結核の種は勝ち誇ったように私の白いハンカチを血で染めた。私の愛する家族は次々と死んでいった。――エドヴァルド・ムンク

死と病は、ムンクが選んだテーマではありません。逃れようのない出発点でした。「自分もいつか壊れてしまうのではないか」という血筋への恐怖は、この頃から生涯彼につきまといます。

青年期—画家として”喪失”を作品に変える

父親が読書する傍らでを描くのが習慣だったムンクは幼少期より絵に興味を持ち、18歳で王立美術工芸学校に入学。20歳になる前には本格的に画家を目指しています。

『自画像』エドヴァルド・ムンク(1881〜82年) ©Wikipedia

青年ムンクの顔には、画家にならんとする自負と神経質そうな表情が垣間見えます。

1886年、23歳のムンクは『病める子』を描きます。モデルは姪の少女ですが、10年前に亡くした姉ソフィエの記憶を再構成した作品でした。

病める子
『病める子』エドヴァルド・ムンク(1885〜86年) ©Wikipedia

この絵で私は新境地を開拓した。それは私の芸術の突破口であった。私のその後の大半の作品は、その存在をこの絵に負っているのである。――エドヴァルド・ムンク

ここでムンクが選んだのは「悲しみを忘れる」ことではなく、「悲しみを何度も描き直す」ことでした。生涯にわたって6点以上のバリエーションを描き続けたという事実そのものが、彼なりのネガティブな感情との”付き合い方”を象徴しています。「痛みは消せない。でも、繰り返し描くことで、それに形を与えることはできる」と。

印象派との出会いと決別

1889年、26歳のムンクは初個展で得た奨学金でパリに留学します。当時のパリはまさに印象派全盛期。意外ですが、ムンクも新印象派の点描画作品を残しています。

ラファイエット通り
『ラファイエット通り』エドヴァルド・ムンク ©Wikipedia

しかし、すぐに気づきます。目に見える光や色を写し取る印象派の手法では、自分の内側にある不安や痛みまでは語れない、と。

そして『春』という作品を境に、ムンクははっきりと印象派との袂を分かちます。

春
『春』エドヴァルド・ムンク(1889年) ©Wikipedia

『春』で、私は印象派とリアリズムに別れを告げた。――エドヴァルド・ムンク

そんな矢先、パリ滞在中に父が死去します。

より内面的なアプローチをしていく姿勢が表れているのが父の死を悼み、描いたパリの一夜の情景『サン・クルーの夜』です。美しさと哀しさ入り混じるメランコリックな心情が反映されています。

サン・クルーの夜
『サン・クルーの夜』エドヴァルド・ムンク(1890年) ©Wikipedia

パリ郊外サン=クルーで悲しみに沈むムンクは、日記にこう書きつけます。

我々はもはや本を読む人や編み物をする女のいる室内を描いてはならないのだ。我々は呼吸し、感じ、苦しみ、愛する真の人間を描かなければならない――エドヴァルド・ムンク(「サン=クルー宣言」)

以後、ムンクの絵は目に見える景色の再現から、内面の”体験”そのものの再現へと大きく舵を切ります。ポスト印象派であるゴッホが描いたのは目に見える風景(印象)と感情。そこに近いですが、ムンクはより内面的な感情・感覚を主題にしていきます。

スキャンダラスな成功「ベルリン事件」

1892年、29歳のムンクはベルリン美術家協会に招かれ、個展を開催します。青一色の画面で官能の始まる瞬間を描いた『接吻』を始め、55点にもおよぶ大規模な回顧展でした。

しかし、ムンクの独創性は理解されず、展覧会は社会問題にまで発展。ベルリンの新聞には「北欧のヘボ絵描き」「頭のおかしい輩がドイツの品のいい、誠実な芸術家たちに殴り込みをかけてきた」など書かれます。

結果、皇帝ウィルヘルムの不興もあり、展覧会は中止となりますが、今で言う「炎上」が、かえってムンクの国際的な知名度を押し上げる結果になりました。

世紀末病を抱えたムンクが生んだ傑作『叫び』

ムンクが30歳になる頃は1890年代後半。つまり19世紀が終わり、20世紀を迎える「世紀末」です。「世紀末」は「末法」と呼ばれ、「オカルト」や「スピリチュアル」などがもてはやされる時代でした。2000年になる時も「ノストラダムスの予言」で世界が破滅するという話が有名でしたよね。

ムンク自身、友人でもある作家のストリンドベリなどと「オカルト」の不可解・不条理なものに傾倒していたことが記録されています。

世紀末病が色濃くなってからはムンクモードが加速します。分かりやすいのが「カール・ヨハン通り」。印象派の影響を受けていた時に描いたのがこちら。

『カール・ヨハン通りの春の日』 エドヴァルド・ムンク ©Wikipedia

そして、いわゆる「世紀末病」にどっぷりつかり始めた1892年に描いた同じ「カール・ヨハン通り」がこちら。

『カール・ヨハン通り』 エドヴァルド・ムンク ©Wikipedia

The ムンクの画風になっていますよね。この作品では以下の言葉を残しています。

「私はすべての人間の仮面の裏を見ることができる。穏やかな笑顔をたたえながら、蒼白い屍が途切れることなく道を歩いてゆく。彼らの行き着く先にあるのは墓場である」。――エドヴァルド・ムンク

青白い顔の群衆の中で右側で背を向けて逆方向に歩いていくのはムンク自身と言われています。

また、翌年30歳の時に描いたのが、あの世界で最も有名な絵画の一つ「叫び』です。

ファム・ファタル(魔性の女)に魅せられ起こった発砲事件

クリムトやエゴンシーレなどが顕著ですが、「世紀末画家」はみな「エロス(愛)」と「タナトス(死)」にとりつかれます。

ムンクも例外ではありません。ムンクは生涯独身でしたが、複数の女性との激しい関係が作品に色濃く反映されていきます。

『吸血鬼』エドヴァルド・ムンク(1894年) ©Wikipedia

妻を含め様々な女性と関係を持ちますが、特に有名なのはトゥーラ・ラルセンその「発砲事件」。

当初はラルセンが貧しいムンクを経済的に援助していましたが、元々結婚願望の強かった彼女は勝手にムンクとの婚約を発表し、ムンクは激怒。

銃を持ちながら「ヨリを戻さないなら殺す!」と脅してきたラルセンとともみあううちに、誤って発砲。その弾丸はムンクの左手の中指を打ち抜きます。

事件翌年の『地獄の自画像』、そして数年後の『マラーの死』——フランス革命の政治家マラーが女性に暗殺された史実に自らの傷を重ねた作品——には、この記憶が色濃く滲んでいます。

地獄の自画像
『地獄の自画像』エドヴァルド・ムンク(1903年) ©Wikipedia
マラーの死
『マラーの死』エドヴァルド・ムンク(1907年) ©Wikipedia

長期入院したことで生まれ変わる

1908年8月、45歳のムンクはコペンハーゲンで精神的な危機に陥り、約8ヶ月入院。ゴッホやエゴンシーレなど多くの”心を病んだ画家”の物語は、ここで終わります。

しかし、ムンクは違いました。電気ショック療法などの治療を受け、アルコールを完全に断ちます、

退院後、ノルウェーへ帰国したムンクは、こんな言葉を残しています。

今の私はニコチンのないタバコ、アルコールのない飲み物、それに毒のない女(既婚、未婚を問わず)、退屈なおじさんというわけだ。――エドヴァルド・ムンク

1916年に購入したオスロ郊外の家で、農耕馬2頭を友に、驚くほど健康的な田園生活を送るようになります。あれだけ愛と死のドラマを描き続けた画家が、最終的に選んだのは「平和な日常」という”退屈”だったわけです。

闇から光へ—オスロ大学講堂の壁画

1911年、48歳のムンクはオスロ大学講堂の壁画コンペで優勝します。長年の夢だった大規模壁画がついに実現し、1916年に完成します。正面を飾る『太陽』には、生命の力が明るい色彩で力強く描かれています。

太陽
『太陽』エドヴァルド・ムンク(オスロ大学講堂壁画、1911年) ©Wikipedia

かつて「叫び」を描いた画家の作品とは思えないですよね。同時期のノルウェーは1905年にスウェーデンから独立したばかりで、国家を象徴するような壁画が求められていたという時代背景もありますが、ムンク個人の内面の変化としても読み解けます。

闇を見つめ続けた画家が、最後にたどり着いたのは光でした。人間にはやはり希望が必要なようです。

ナチスに狙われても、屈しなかった晩年

1933年、70歳のムンクはノルウェー聖オラフ大十字勲章を授与されすが、ナチス・ドイツは国家主義に反する作品を「退廃芸術(政治イデオロギーに反する芸術)」と呼んでムンクを弾圧。

80点以上が対象となり、押収されて国外でオークションにかけられました。3年後の1940年にノルウェーがドイツに占領されてからも、ムンクはナチス側との接触を拒み続けたと伝えられています。またムンクはそれ以上自身の作品が没収されるのを避けるため、遺言書には「所有する全作品をオスロ市に遺贈する」と記載していました。

晩年は多くの自画像を描き続けました。

スペイン風邪の後の自画像
『スペイン風邪の後の自画像』エドヴァルド・ムンク(1919年) ©Wikipedia

1944年、ノルウェーがナチス占領下にあるさなか、自宅で80年の生涯を閉じます。

【まとめ】ムンクこそ”理性の画家”

ムンクについて語る時、切り離せないのが病気や死、そして狂気というワード。しかし、「狂気の画家」という言葉はムンク自身が70歳の誕生日に自分を語る際に発した”後付け”の言葉でした。

事実、ムンクは心を病むほどに病気や死がまとわりついた画家でしたが、ムンクが残した「狂気の作家による日記」では、狂気を友人のように他人として切り離すことでそれを分析の対象にしたと書かれています。

つまり、ムンクは冷静に”狂気を飼いならす”ことをしていたのです。『叫び』を描いたヤバそうな画家の正体は「理性の画家」であったのです。

印象派に影響された時期、エロスとタナトスを主題にした時期、そして光に見出された晩年。次からムンク作品を観る際は、どの時期か照らし合わせながら鑑賞してみると、よりムンクの奥深さを感じられるのではないでしょうか。

参考文献
「もっと知りたいムンク」-千足 伸之
「ムンクの世界 魂を叫ぶ人」-田中 正行

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