エドゥアール・マネは「印象派の父」や「近代絵画の父」と呼ばれています。ですが、具体的に何をした人なのか、即答できる人は意外と少ないかもしれません。
近代絵画の巨匠たちは、それぞれ違うルールを壊しています。例えばゴッホが壊したのはのは”色彩のルール”、セザンヌが挑んだのは”形態のルール”。そしてマネが真っ先に壊したのは、「何を描いていいか」という”主題のルール”でした。
神話や歴史でなければ裸は描けない――そんな西洋美術の大きな縛りを、最初に取っ払ったのがマネだったのです。彼の51年の生涯を追いかけてみましょう。

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【1分で解説】マネってどんな人?

エドゥアール・マネ(1832〜1883年)は、パリの裕福な法律家の家に生まれたフランスの画家。父は息子を法律家にしたがっていましたが、マネ本人は海軍か画家になりたいと言い張り、結局画家の道に落ち着きます。
1863年の『草上の昼食』で、神話でも歴史でもない「今この瞬間の裸婦」を堂々と描き、西洋美術史上最大級のスキャンダルを巻き起こしました。結果、のちの印象派、さらにはピカソのキュビスムにまで影響を与え、マネは「近代絵画の父」と呼ばれるようになります。
一方でマネ本人は、モネやドガなど若手画家たちのリーダーと慕われながらも印象派展には一度も参加せず、最後まで公式サロンでの評価にこだわり続けた人でもありました。51歳で死去。晩年は歩行困難になるほどの病に苦しみながらも、最後まで絵筆を握り続けた画家です。
マネの生涯を追いかける
裕福な家に生まれた”海の男”志望
マネは1832年、パリの裕福な法務官僚の家に長男として生まれます。父は当然のように「息子は法律家に」と考えていましたが、マネ本人は海軍軍人になりたいと言い出します。
海軍兵学校の受験に失敗したマネは、それでも諦めきれず、練習船に乗り込みブラジルのリオデジャネイロまで航海するという荒業に出ます。結局この航海でも海軍への道は開けませんでしたが、この経験はのちの人生観や作風にも影響を与えたといわれています。パリに戻ったマネはようやく父を説得し、画家トマ・クチュールに弟子入りすることに。
修業時代のマネが夢中になったのは、スペインの巨匠ベラスケスやティツィアーノと、当時パリで話題になり始めていた日本の浮世絵。


東西まったく別の文化から同時に栄養をもらっていたわけで、この雑食っぷりが後の作風の土台になります。「伝統を壊す人」というイメージとは裏腹に、マネは古典絵画を誰よりも研究していた勉強家でもありました。
下積み時代―落選、そして初のサロン入選
画家としてのスタートは、決して順風満帆ではありませんでした。自信作だった『アプサントを飲む男』(1858〜59年)はサロンに落選。

酒場で飲んだくれる労働者という、社会の片隅に生きる人物を主題に選んでいて、後年のマネらしい姿勢がすでに顔を出しています(詩人ボードレールらは斬新な主題などを支持)。
雪辱を果たすのは3年後。1861年のサロンに『スペインの歌手(ギタレロ)』(1860年)が入選します。これがマネ、記念すべき初のサロン入選作でした。

批評家テオフィル・ゴーティエは「マネのこの等身大の人物像には、才能が込められている」と絶賛。落選の悔しさをバネに掴んだこの評価が、マネの背中を押しました。
落選者から革命家へ
31歳のマネを一躍有名にしたのが、『草上の昼食』(1863年)。

着衣の男性たちと裸の女性がピクニックをする、という構図がサロンで落選し、皇帝の勅令で開かれた「落選展」に展示されることになります。
実はこの構図、ルネサンスの巨匠ラファエロやティツィアーノの作品を下敷きにしたオマージュでした。


古典を知り尽くした上での確信犯だったわけですが、当時の観客にそんな教養は通じません。なぜなら裸婦は神話や宗教をモチーフにした時のみに描いていいお決まりがあったからです。
そのため「なぜ現代の女性を、神話でも宗教でもないのに裸で描くのか」と大バッシングを受けます。落選者として笑いものにされたこの一件が、皮肉にもマネを一夜にして時代の顔に変えていきます。

私はこの絵を「オルセー美術館」で実際に観たことがあるのですが、裸婦の生々しさと、その横で普通に談笑している着衣の男性たちのアンバランスさに、思わず立ち止まってしまいました。遠近法もどこか狂っているのに、なぜか目が離せない――名だたる名画をたくさん観た後でも、一番記憶に焼きついていたのがこの絵でした。

マネは2年後の『オランピア』(1865年)でさらに炎上します。娼婦とおぼしき女性を、堂々とヴィーナスのポーズで描いたこの絵は「下品」「不道徳」と酷評の嵐。ここまでくると押しも押されもせぬスキャンダルメーカーの称号は不動のものになります。

ちなみにマネの死後20年以上経ってから、モネたちが募金を集めてこの絵をルーヴル美術館に収めさせています。あれだけ絵画の権威者たちが叩いた絵が、仲間の手でフランスの至宝になったわけです。

詩人ボードレールの影響と小説家ゾラの擁護
では、なぜマネは主題を変える必要があったのか。そのヒントが、詩人シャルル・ボードレールとの友情にあります。

ボードレールは「神話や歴史ではなく、今この瞬間のパリの街こそが芸術の主題になる」という考え方(当時の言葉で「モデルニテ」)を提唱していました。
いわば「わざわざ神様や英雄を描かなくても、目の前のカフェやパリジェンヌで十分にドラマチックだ」という発想の転換。マネはこの考え方を絵筆で体現し、公園でくつろぐ市民や、劇場の客席を堂々と絵の主題にしていきます。
また四方八方から叩かれていたマネを公然と擁護したのが、若き日のエミール・ゾラでした。後に大作家となるゾラですが、臆せずマネを擁護し、感謝したマネは『エミール・ゾラの肖像』(1868年)を描いてお返しをします。

この絵の背景には『オランピア』の複製版画、日本の浮世絵、ベラスケスの模写がさりげなく描き込まれていて、「自分を分かってくれた人にだけ見せる、種明かしのような一枚」になっています。
モネら若き才能を引っ張る印象派のリーダー

1860年代後半になると、モネ、ルノワール、ドガら若い画家たちがマネのもとに自然と集まるようになります。画家アンリ・ファンタン=ラトゥールが描いた集団肖像画には、マネを囲む若手たちの姿がしっかり残されています。
ところが不思議なことに、マネ自身は1874年に始まった「印象派展」に一度も出品していません。若手たちの憧れの的であり交流も盛んにしていましたが、頑なに公式サロンでの評価にこだわり続けたのです。なんともねじれたポジション。
何故、印象派展に出品しなかったのか?
それはマネにとって保守派と戦う場はサロンであったから。さらにマネはたっぷりとしたサイズのキャンバスを使うため、戸外制作をメインとした印象派の画家たちとは方向性が相いれなかったためです。
マネはこんな言葉を残しています。
芸術とは、ひとつの輪である。我々は出生の偶然によって、その輪の内側にいたか、外側にいたかを決める。――エドゥアール・マネ
自分が生みの親になった輪であっても、あえて外から見ていたマネ。そんな姿にマネの頑固な人間らしさが垣間見えて面白しです。
戦火のパリで筆と銃を取る
サロンでの評価にこだわり続けた”体制派”のイメージとは裏腹に、マネは政治的な主題にも臆せず踏み込む人でした。
時のフランス皇帝ナポレオン3世は、メキシコに傀儡帝国を樹立しようと、オーストリア皇帝の弟マクシミリアンをメキシコ皇帝に据えます。しかし現地の抵抗を受けて後ろ盾を失ったマクシミリアンは、1867年、反乱軍に捕らえられ銃殺されてしまいました。
この事件を知ったマネは、すぐさま筆を取ります。それが『マクシミリアン皇帝の処刑』(1867〜69年)。あえて処刑を実行する兵士たちの制服を、フランス軍風のデザインで描いた非常に風刺のきいた作品です。

かつてゴヤが『1808年5月3日』で描いた、権力による処刑への告発の系譜を継ぐこの作品は、ナポレオン3世への痛烈な批判として、政治的配慮から公の場での展示を禁じられたほどでした。

絵筆を武器に、皇帝の失策を告発したマネ。しかし彼の戦いは、絵の中だけでは終わりません。
1870年、普仏戦争が勃発すると、モネやピサロは戦火を逃れてロンドンへ渡ります。しかしマネは違いました。国民衛兵として自ら志願し、パリに残って戦います。続くパリ包囲戦、そしてパリ・コミューンの動乱も、絵筆を置いて銃をとったのでした。
言うべきことは絵で伝え、守るべきものは自分の手で守る。そんなマネの自国愛の強さや行動的な点も周りから尊敬される理由だったのかもしれません。
マネの晩年と最期
40代のマネは、若い頃よりむしろ生き生きとしていました。1874年、モネが暮らすアルジャントゥイユを訪ね、屋外で並んで絵を描いたことがきっかけで、マネのパレットは以前よりぐっと明るく開放的な色に変わっていきます(印象派には入らないのに、影響はしっかり受ける、というのもマネらしいところです)。
ところが1880年頃から、マネの脚に原因不明の痛みが出るようになります。後の研究では、梅毒に由来するとみられる神経の病(脊髄癆)だったと考えられています。歩行すらままならなくなり、大きなキャンバスに向かうことが難しくなっていきました。
それでもマネは筆を置きませんでした。寝たきりに近い状態でも描き続けられる、小さな花や果物の静物画を次々と仕上げていったのです。大作が描けないなら、描けるものを描く。この執念が、病床の画家としては異例の傑作を生みます。それが最後の大作『フォリー=ベルジェールのバー』(1881〜82年)。

アトリエにバーのカウンターまで持ち込んで、実際に働いていた店員をモデルに呼び寄せて描き上げました。鏡に映る客席の反射という複雑な仕掛けを持つこの絵は、今も「鏡の中の人物はどこにいるのか」と美術史家たちの議論の的になり続けています。
この絵がサロンに出品されると、大絶賛を浴びます。生涯かけて焦がれ続けたサロンでの評価を、死の前年になってようやく手にしたわけです。

1883年、脚の壊疽が進行し、死の10日前に左脚を切断。同年4月、パリで51年の生涯を閉じました。
【小話】義妹になった印象派のベルト・モリゾ

マネの周辺で欠かせない存在が、女性の印象派画家ベルト・モリゾです。1868年、マネはモリゾの絵の才能に気づき、彼女をモデルに何枚もの作品を残します。
モリゾはマネを画家としてもリスペクトし、「弟子になりたいです!」と追っかけていてたそうですが、マネは「弟子は取らん!」と門前払い。モリゾは6年間も片思いしますが、結局弟子入り(恋?)は叶わず、最後はマネの弟であるウジェーヌ(後に印象派展のカタログなど作った人)と結婚します。
いつの間にか義理の妹になっていたわけなのでちょっと怖いですが、モリゾはその後短い人生でありながらも、夫ウジェーヌと娘のジェリーと幸せに暮らします。マネも実はモリゾの絵に影響を受けたりと、師弟でも、単なる友人でもない、少し変わった距離感の2人。マネの数ある人物画の中でも、モリゾを描いた作品はいずれも傑作です。

マネの後世への影響
マネが『草上の昼食』で壊した「主題のルール」は、そのまま次の世代へリレーされていきます。神話や宗教ではなく、「今」という現実を描く姿勢は印象派へ、そしてマネが仕掛けた「遠近法の破壊」はセザンヌの形態実験へ、さらにピカソのキュビスムへとつながっていきました。
ピカソ本人も1959〜62年にかけて、『草上の昼食』をモチーフにした連作を何十点も残しています。

約100年後の巨匠まで本気にさせた1枚というわけです。ゴッホやゴーギャンの「色彩の革命」、セザンヌの「形態の革命」は、いずれもマネが切り開いたこの土台の上で起きたことでした。モチーフは、神話や宗教ではなくていい、あくまで目に見える人や風景でもいいのだとマネの画家としての姿勢や作品が高らかに語っています。

【まとめ】「近代絵画の父」の正体は男が憧れる漢

マネがそもそもなぜ近代絵画の壁を破り、ファーストペンギンとなれたのか。その答えは、マネ自身の生き様にあったように思えます。
マネはとにかく流されません。
「絵とはこうあるべし!」
「印象派展に加わってサロン審査を壊しましょう!」
そんな常識にも情熱にも揺さぶられることはなく、淡々と自分流を貫くのがマネです。そして愛するパリのために筆をとり、銃でも戦う男。
そんな背中で語るマネに、自然と人が集まり影響されていったのではないでしょうか。そしてそのマネの信念が「主題の変革」を起こし、「近代絵画の父」を作り上げたのです。
私は勝手にそんな風に想像してしまいます。いつの時代も世の中に大きな影響を与えるのは、人の小さな一歩なのだとマネが教えてくれています。
参考文献
「もっと知りたいマネ―生涯と作品」- 高橋明也
「マネへの招待」 – 三宮博信
「運命の絵」 – 中野京子
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